現代の超高齢社会において、加齢に伴う筋肉量の減少や筋力の低下は、人々の健康寿命を脅かす深刻な問題となっています。
このような背景の中で、ネスレ研究所を含む富山大学やメルボルン大学らをはじめとした研究チームは、コーヒー豆や特定の植物に豊富に含まれる天然のアルカロイド成分であるトリゴネリンが、筋肉の健康維持に極めて重要な役割を果たしていることを明らかにしました。
研究チームは、多種多様な生物種を用いた実験から、トリゴネリンが細胞内の主要な代謝因子であるNAD+の量を高める新しい前駆体として機能することを発見しました。
結論として、本研究は、トリゴネリンの栄養補給が、加齢に伴う筋肉機能の低下やサルコペニア(筋肉減少症)に対処するための、極めて有効で新しいNAD+上昇戦略になり得ることを強く示唆しています。
なお、本研究はヒトの臨床コホートデータの解析、マウスを用いた生体内試験、線虫を用いた寿命・運動能力の評価、そしてヒトから採取した筋肉細胞の培養実験(インビトロ試験)という多層的なアプローチを組み合わせているため、基礎研究およびトランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)の観点から非常に強固な証拠に基づいていると言えます。
ただし、実際にヒトがサプリメントや特定の食品からトリゴネリンを日常的に摂取した場合に、どれほどの長期的な筋力維持効果が得られるかという臨床的な実用性の詳細については、一部において不確実性や曖昧な点が残されており、今後のヒトを対象とした長期介入試験による検証が待たれます。
以下に研究の内容をまとめます。
参考研究)
・Trigonelline is an NAD+ precursor that improves muscle function during ageing and is reduced in human sarcopenia(2024/03/19)
加齢に伴う筋肉の衰えと細胞内代謝の課題

人間は年齢を重ねるにつれて、骨格筋の質量が徐々に減少していき、それに伴って身体のパフォーマンスや生活の質が低下していく傾向にあります。
この現象は医学的にサルコペニアと呼ばれており、高齢者の要介護原因や転倒リスクの増大に直結する重大な疾患として捉えられています。
サルコペニアの主な原因の一つとして、細胞のエネルギー産生工場であるミトコンドリアの機能不全が挙げられます。
ミトコンドリアは、細胞内で酸素を利用してエネルギー(ATP)を作り出す重要な細胞内小器官のことです。
さらに、加齢に伴って細胞内のニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(NAD+)という物質のレベルが著しく低下することが、近年の老化研究において知られています。
ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド(NAD+)は、すべての生体細胞に存在し、エネルギー代謝や細胞の修復、さらには抗老化遺伝子の活性化において必須となる補酵素のことです。
これまでの研究では、このNAD+の減少が骨格筋の老化を加速させる要因であることが指摘されていましたが、その機能低下が組織局所の変化によるものなのか、それとも食事や全身の循環因子といった外部からのシグナルによって制御できるものなのかについては、十分に解明されていませんでした。
「トリゴネリン」

研究チームは、血液中を循環している天然の化学物質に着目しました。
そこで浮上したのが、ニコチン酸(ビタミンB3の一種)と非常に類似した分子構造を持つ植物由来のアルカロイドであるトリゴネリンでした。
アルカロイドとは、植物などに含まれる窒素を含む天然の有機化合物の総称であり、生体に対して様々な生理活性を持つことが知られている成分のことです。
トリゴネリンは、私たちが日常的に口にするコーヒー豆に高濃度で含まれているほか、フェヌグリークというスパイスや、大麦、トウモロコシ、大豆、タマネギなどの身近な食材にも含まれています。
研究チームはまず、ヒトの臨床データを用いて、血中のトリゴネリンの量と筋肉の健康状態との間にどのような関係性があるのかを解析しました。
その結果、サルコペニアを患っている高齢者では、健康な高齢者と比較して、血清中のトリゴネリンのレベルが有意に低下していることが判明したのです。
さらに詳しく分析を進めると、血中のトリゴネリンの濃度が高い人ほど、握力などの筋肉の強さが優れており、骨格筋におけるミトコンドリアの酸素消費を伴うエネルギー産生効率(酸化的にリン酸化を伴う代謝反応)に関連する遺伝子群の働きが活発であるという、正の相関関係が確認されました。
このヒトにおけるデータは、トリゴネリンが単なる食事の副産物ではなく、筋肉の質や機能を維持するための重要なバイオマーカーである可能性を強く示しています。
トリゴネリンが細胞内でNAD+へと変換される経路の解明
研究チームは、トリゴネリンがどのようにして細胞内のNAD+を増加させるのか、その具体的なメカニズムを突き止めるために、同位体で標識したトリゴネリンを用いた高度な追跡実験を行いました。
同位体標識(isotope labeling)とは、特定の原子を質量が異なる安定同位体に置き換えることで、その分子が体内でどのように代謝され、別の物質へと変化していくかを精密に追跡する技術のことです。
この実験により、投与されたトリゴネリンが直接的に細胞内へと取り込まれ、NAD+の分子プールへと組み込まれていくプロセスが明確に実証されました。
驚くべきことに、トリゴネリンは、ヒトの健康な若年者から採取した初代培養筋肉細胞だけでなく、サルコペニアの患者から採取した骨格筋細胞においても、細胞内の総NAD+量を顕微鏡レベルおよび生化学的分析において有意に増加させることが確認されました。
細胞内への取り込み経路において、トリゴネリンは既存の一般的なビタミンB3受容体であるGPR109Aを経由しません。
その代わりに、「プレイス・ハンドラー経路」と呼ばれる細胞内の独立した代謝ルートにおいて、ニコチン酸ホスホリボシルトランスフェラーゼという酵素の働きを介して代謝されることが突き止められました。
プレイス・ハンドラー経路(Preiss-Handler pathway)は、ニコチン酸を原料として数段階の酵素反応を経て、最終的に生体に必要なNAD+を合成するための主要な細胞内代謝経路のことです。
この発見により、トリゴネリンが既存の他のビタミンB3製剤(ニコチンアミドやニコチン酸モノヌクレオチドなど)とは異なるアプローチで、安全かつ効率的に細胞内のNAD+を高めることができる「新たなNAD+前駆体」として正式に定義されました。
多彩な生物モデルで証明された抗老化と筋力維持効果

本研究の非常に強力な点として、単一の生物だけでなく、線虫やマウスといった、進化的背景の異なる複数の実験モデル生物を用いて一貫した効果を証明している点が挙げられます。
まず、遺伝学的な解析が容易な線虫を用いた実験においては、トリゴネリンの投与によって以下の劇的な変化が観察されました。
・ミトコンドリアの呼吸活性および新しいミトコンドリアの生合成が大幅に促進された点
・加齢に伴う筋肉の萎縮や変性が目に見えて抑制された点
・健康に動くことができる期間(健康寿命)が延び、高齢期の移動能力が維持された点
これらの線虫における驚異的な若返り効果は、長寿遺伝子として世界中で注目されている「サーチュイン(sirtuin)」の働きを必要とする、NAD+依存的なメカニズムによって引き起こされていることが遺伝子ノックアウト実験などによって厳密に証明されました。
サーチュインとは、細胞内のエネルギー状態を感知し、ヒストンの脱アセチル化などを通じて多くの遺伝子の働きを制御することで、老化の抑制や細胞の寿命延長を司るタンパク質のことです。
続いて、より人間に近い哺乳類モデルである高齢のオス個体のマウスを用いた実験においても、同様に素晴らしい結果が得られました。
トリゴネリンを食事に混ぜて日常的に補給させた高齢マウスでは、通常の食事を与えられていた対照群のマウスと比較して、骨格筋の筋力が有意に強化され、トレッドミルなどの運動試験における疲労耐性が大幅に向上することが確認されました。
これは、トリゴネリンの摂取が、加齢によって生じる筋肉の持久力の低下や肉体的な疲労感を防ぐための、実用的な栄養介入手段になり得ることを生体レベルで証明した結果です。
曖昧な点と今後の課題
本研究は非常に洗練された実験系によってトリゴネリンの有用性を証明していますが、科学的な客観性を保つために、いくつかの曖昧な点や未解明の領域についても言及しておく必要があります。
第一に、ヒトのコホート研究において「血中トリゴネリン濃度が高い人ほど筋力が強い」という相関関係は見出されたものの、これは因果関係を直接的に証明したものではありません。
すなわち、トリゴネリンが多いから筋肉が若いのか、あるいは健康的な食生活や活発な代謝活動を行っている人の結果としてトリゴネリンの血中濃度が高くなっているのかという詳細な因果の方向性は、この論文のデータだけでは完全に断定することはできません。
第二に、動物実験で使用されたトリゴネリンの投与量は、通常の食生活で摂取できる量よりも比較的高い濃度に設定されている場面があり、人間が通常の食事(例えばコーヒーを数杯飲むなど)から摂取できるレベルのトリゴネリンだけで、同様の劇的な筋力低下抑制効果が発揮されるかどうかについては、現段階ではいささか確実性に欠ける部分があります。
今後、ヒトを対象とした厳密なプラセボ対照二重盲検比較試験による介入研究が行われることで、これらの疑問が解消されることが期待されます。
まとめ
・コーヒー等に含まれる天然成分「トリゴネリン」が、加齢に伴い低下する細胞内の必須物質「NAD+」を高める新しい前駆体であることが判明した
・トリゴネリンは筋肉のエネルギー工場であるミトコンドリアの機能を活性化させ、線虫や高齢マウスの実験において筋力低下の抑制や運動能力の向上をもたらした
・ヒトの臨床データでも血中濃度と筋力の強さに正の相関がみられ、加齢による筋肉減少症(サルコペニア)の予防や健康寿命の延伸に向けた新たな栄養戦略として期待される

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