歴史芸術

スポード窯とボーンチャイナ ~スポード②~

歴史

【前回記事】

の続き。

 

スポードとボーンチャイナ

ジョサイア・スポード二世(1755-1827)

 

初代スポードが亡くなった後、息子のスポード2世がストーク・オン・トレントの製造窯を引き継ぎます。

 

彼の功績のひとつとして挙げられるのが、ボーンチャイナを商用レベルまで発展させたことです。

 

以前の記事にて、トーマス・フライがボウ窯にてボーンチャイナの製法を編み出し、1748年に特許を取得したことについてお伝えしました。

 

しかし、その後長い間、ボーンチャイナの製造に関するコストが見合わず、他の磁器のように盛んに作られるまでには至っていませんでした。

 

18世紀末になると、スポードもボーンチャイナについての研究をスタート。

 

材料の組成や焼き方などを試行錯誤した結果、1799年頃にはボーンチャイナのレシピが出来上がり、透過性のある白色の磁器を作ることが可能になりました。

 

また、1806年になると、ボーンチャイナの研究から派生してストーン・ウェア(炻器)の開発に成功。

 

ストーン・ウェア陶器磁器の中間に位置する焼き物です。

 

磁器のような光沢はありませんが、釉薬をかけて焼くことで水分を通さないようになっています。

 

ここで考案されたボーンチャイナなどのレシピが、後のウェッジウッドやロイヤルドルトンなどに伝わり、現在の私たちが見る食器に繋がっていきます。

 

 

ロイヤルの称号を受ける

 

この頃のヨーロッパは、1803〜1815年まで続くナポレオン戦争の真っ最中であり、フランス周辺は混乱期にありました。

 

イギリスは産業革命の成功もあり力をつけていましたが、それが逆に大陸各国に警戒心を持たれることにもなりました。

 

イギリスに対して輸出入品の制限をかけて力を削ごうという動きもあったため、輸出に頼っていた国内の産業は大打撃を受けます。

 

それはスポードをはじめとする英国窯も同様でした。

 

しかし、一部の窯はこの経済難を逃れることができました。

 

それにはジョージ4世の存在が大きく関係しています。

 

ジョージ4世(1762〜1830年)

 

ジョージ4世(この時はまだ皇太子ウェールズ)は大変な浪費家として知られており、イギリス国内の陶磁器にも大量のお金をつぎ込んでいました。

 

大陸ではカオリンを使った白磁(硬質磁器)の製造が確立されていた一方、イギリスではそのカオリンを入手することができず、白磁の製造においては一歩遅れていたと言えます。

 

しかし、スポードボーンチャイナを安定して供給できるようになったことがジョージ4世の目に止まります。

 

自国内で白磁が製造可能になったことは彼にとって大きな誇りになったことでしょう。

 

1806年にスポードは、ロイヤル・ウォラント(王室御用達)の称号を授かりました。

  

 

ブルーイタリアン

ロイヤル称号とボーンチャイナとストーン・ウェアの製造に成功した後、父の時代に開発された銅板転写技術を使い、中産階級に向けた食器を作っていくスポード2世。

 

この頃に作られたデザインが、今でもスポードの人気商品となっている“ブルーイタリアン”です。(1816年頃)

 

 

ブルーイタリアンは、プレートの周りシノワズリ調、真ん中には当時上流階級で流行っていたネオクラシカル調の模様が描かれています。

 

かつて、ジョサイア・ウェッジウッド父にアドバイスしてくれた通り、スポードが得意としていたブルーとホワイトで彩られた食器は人気が衰えることはなく、ビジネスとしても成功を収めることになりました。

 

その後1827年になると、スポーツを大きく大成させたスポード2世はこの世を去り、 彼の息子に受け継がれていくことになります。

 

 

まとめ

・スポード1世亡き後、息子のスポード2世が窯を引き継ぐ

・ボーンチャイナやストーンウェアの研究開発によって窯は発展

・王室御用達となるほどの名声を得る

 

いかがでしたでしょうか、ジョサイア・スポード1、2世が紡いだ陶磁器の歴史。

 

ナポレオン戦争の時期に見られるような混乱の中、周辺各国が牽制を続ける中で生き残るというのは運も実力も経験も必要になってきます。

 

実際、ボウ窯やチェルシー窯がダービー窯に吸収されたように、このタイミングで消えていく窯も沢山ありました。

 

そんな中、“ボーンチャイナ”という武器を携えて動乱の世を生き抜いたスポード窯の生き様を感じてくれたら嬉しいです。

 

 

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