長年にわたり、慢性的な痛みは多くの人々を苦しめ、医療現場でも治療が困難な課題とされてきました。
しかしこのたび、ペンシルベニア大学の研究者J Nicholas Betley氏を中心とした国際的な研究チームが、脳の中に存在する「痛みのスイッチ」とも呼べる神経回路を発見しました。
この発見は、慢性的な痛みを抑制するまったく新しい方法を示唆するものです。以下に研究の内容をまとめます。
参考記事)
・Scientists discover brain circuit that can switch off chronic pain(2025/10/10)
参考研究)
・A parabrachial hub for need-state control of enduring pain(2025/10/08)
脳幹に存在する「痛みの制御中枢」
Betley氏と、ピッツバーグ大学およびスクリプス研究所の共同研究チームは、脳幹の中にある外側腕傍核(lateral parabrachial nucleus:lPBN)に注目しました。
ここには「Y1受容体(以下Y1R)を発現する神経細胞群」が存在し、これらが慢性的な痛みの状態で活性化されることを突き止めたのです。
さらに驚くべきことに、これらの神経細胞は痛みだけでなく、空腹・恐怖・渇きといった生存に関わるシグナルも処理していることがわかりました。
つまり脳は、生命の維持に直結する重要な欲求が生じたとき、痛みの感覚を一時的に抑制する仕組みを持っている可能性があるのです。
研究者は「脳内には痛みの信号を伝達する神経の活動を減弱させる回路が存在する」と結論づけています。
「痛み」を可視化する:脳内での信号追跡
Betley氏のチームは、同大学のBradley K. Taylor研究室と協力し、カルシウムイメージングという技術を用いて動物モデルの脳内神経活動をリアルタイムで観察しました。
その結果、Y1R神経は一過的な痛み刺激には強く反応しないものの、長期間持続する痛みの状態では継続的に発火を続けることが確認されました。

この現象は「トニック活動」と呼ばれ、まるで車のエンジンが停止せずにアイドリングを続けているような状態にたとえられます。
Betley氏は、「けがや手術の後、身体的には回復していても、痛みが消えない人がいる理由は、この継続的な神経活動にあるかもしれない」と指摘しています。
「空腹」が痛みを抑える? 研究の背景
この研究の原点は、Betley氏が2015年にペンシルベニア大学に着任した際の偶然の気づきにありました。
彼は自身の経験から、「空腹のとき、人は何としてでも食べ物を得ようとする。そのとき、慢性的な痛みはアドビル(鎮痛薬)よりも空腹の方が強力に痛みを抑えているように感じた」と語っています。
この観察をきっかけに、当時の大学院生Nitsan Goldstein氏がさらなる実験を行い、渇きや恐怖といった他の生存関連の状態も、長期的な痛みを抑制することを突き止めました。
スクリプス研究所のAnn Kennedy研究室との共同研究により、傍脚核が感覚入力をフィルタリングし、緊急の生存行動が必要なときに痛みを抑制することが確認されました。
Goldstein氏は「脳は、生存のための緊急性を痛みより優先するように設計されているに違いない。その切り替えを担う神経を突き止めたかった」と語っています。
痛みを制御する「神経ペプチドY(NPY)」の役割
研究チームは、このスイッチの中心的役割を果たす物質として神経ペプチドY(NPY)をに注目しました。
NPYは、脳内で複数の欲求やストレス反応を調整するシグナル伝達物質であり、空腹や恐怖などの状態において、Y1受容体に作用して痛みの信号を抑制することがわかりました。
本研究図5より 詳細は→Fig. 5: Competing survival threats suppress lPBN Y1R neuron responses during persistent pain.
1. 生存を脅かす他の刺激(飢餓、渇き)は、持続痛状態下で Y1R 神経応答を抑制する傾向がある→ 脳は複数の生理的要求を比較・取捨選択し、より緊急性の高い欲求を優先する際、痛み信号の伝達を抑える回路を動員する可能性が示唆される
2. NPY 神経の活性化は、Y1R 神経応答を抑制する効果をもたらす
→ NPY が「欲求状態」を反映する信号として機能し、Y1R 回路を調節する “スイッチ” としての役割を担っている可能性が支持される
3. 痛覚刺激(ピンチ)に対しては群間差が見られるものの、熱刺激条件下では Y1R 神経応答の差は有意とは言えない
→ 刺激の種類や性質によって Y1R 神経回路の反応様式は異なる可能性があり、痛みの種類(機械的刺激 vs 熱刺激)に対する回路の選択性があることが示唆される
Goldstein氏は「脳には内蔵されたスイッチのような仕組みがある。飢餓や捕食者に直面しているとき、痛みに圧倒されてしまっては生き延びられない。NPYは、こうした状況で痛み信号を静め、他の生存行動を優先させる」と説明しています。
モザイク状に分布するY1R神経
さらにチームは、外側傍脚核におけるY1R神経の分子的・解剖学的特徴を詳細に解析しました。
その結果、Y1R神経は明確なクラスターを形成しておらず、さまざまな神経細胞型に散在するモザイク状の構造をとっていることがわかりました。
Betley氏は「黄色の車が一か所に並んでいると思ったら、実際は赤や青、緑の車に黄色いペイントがまばらに塗られているようなものである。この分散構造によって、脳は異なる種類の痛み入力を複数の回路で柔軟に抑制できるのかもしれない」と述べています。
慢性痛治療への応用:新たな希望

Betley氏は、今回の成果について「Y1神経の活動を慢性痛のバイオマーカーとして利用できる可能性がある」と期待を寄せています。
現在、多くの患者が整形外科や神経科を受診しても明確な損傷が見つからず、それでも痛みを訴えるケースが少なくありません。
「私たちの研究が示しているのは、痛みの原因が必ずしも末梢神経や損傷部位にあるわけではなく、脳の神経回路そのものに問題がある可能性だということである。もし特定の神経群を標的にできれば、まったく新しい治療法への道が開く」と語ります。
さらに、この発見は薬物治療だけでなく、運動・瞑想・認知行動療法などの行動的介入が脳内回路に影響を及ぼす可能性も示唆しています。
今後の展望
本研究は、痛みの感じ方そのものを制御できる」という可能性を示した初の例として注目されています。
これまでの治療が「痛みの原因」を取り除くことに重点を置いてきたのに対し、この発見は「痛みを伝える脳内ネットワークそのもの」を再調整するアプローチの可能性を提示しています。
ただし研究の多くは動物モデルを用いて行われており、人間における同様の神経回路の働きについてはまだ明確ではない点も、研究者自身が認めています。
今後の課題は、ヒトの脳において同様の回路が確認されるか、そしてそれを安全に制御できるかどうかです。
まとめ
・脳幹の外側傍脚核に存在するY1受容体発現神経が、慢性的な痛みの制御に関与していることを発見
・神経ペプチドY(NPY)が生存行動時に痛み信号を抑制するスイッチとして機能する
・この脳回路を標的とすることで、薬物だけでなく行動的治療を含む新たな慢性痛治療法の可能性が開かれる



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