この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝」から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。
本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。
記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。
今回のテーマは「松永安左エ門」です。
電力の鬼、松永
松永左エ門 という人物をご存知でしょうか。
戦後、GHQに占領された日本において、電気料金の大幅に値上げに踏み切った実業家で、1951年からのわずか3年間で7割近い値上げを行いました。
国民はもちろんのこと、経済団体もこぞって反対の姿勢を打ち出し、安左ェ門の自宅にはデモ隊が押し寄せ、連日のように脅迫状が届くほどの嫌われ者でした。
戦後の苦しい時期にもかかわらず“電気料金の値上げ”を断行したため、鬼とまで言われたこの男。
彼が自ら嫌われ者になってまで成し遂げようとしたものは何だったのか。
以下にまとめていきます。
安左エ門の生い立ち
安左エ門は1875年、長崎県の壱岐島に生まれ、幼名は亀之助と言います。
安左エ門という名前は、父から受け継いだ名前で、亀之助は3代目の安左エ門でした。(以下亀之助=安左エ門)
家は運送・酒屋・金融など様々な業種を手がける庄屋で、父は息子に実家を継がせようとしていましたが、安左エ門にその気はありませんでした。
彼は、かねてから福沢諭吉の「学問のすゝめ」に影響されており、勉学の道を志そうとしていたのです。
あるとき彼は両親に、「 大きなことを成し遂げるために、東京の学校で学びたい!」こう訴えました。
両親はこの訴えに反対の意を示しましたが、安左ェ門は「認めてもらえるまでものを食べない」と一人ハンガーストライキを実施。
抵抗は数日にもおよび、家族もついには認めざるを得ませんでした。
社会を変えるほどの行動力の片鱗は、この頃から見えていたようです。
そんな安左エ門でしたが、父の死去によって慶応義塾を中退することに。
家業を継ぐも3年で廃業となったため、その後、慶応に復学します。
東京に出て学問にはげむ安左エ門でしたが、次第に学問へ興味を失ってしまいます。
そのことを師匠の福沢諭吉に打ち明けると就職をすすめられ、慶応を中退して日本銀行に就職するも1年で退社。
その後は石炭事業の会社を立ち上げることになります。
安左エ門は、誰かに指示されて行動するよりも、自ら動いた方が性に合っているらしく、経営者性格だったようです。
日露戦争の特需を見逃さず、石炭の高騰によって商売を軌道に乗せた安左エ門は石炭商として大成功を収めます。
ところが、戦争が集結すると不景気が襲い、経営が傾き始めました。
これに加えて家が火事に遭ってしまい、安左エ門は30歳過ぎにして破産。
すべてを失ってしまった安左エ門は、心労で体を壊して小屋にこもり、妻と静かに生活する日々を送ることになります。
電力王
療養生活の中で安左エ門は、読書にふけりながら歴史、哲学、宗教、政治、経済とあらゆる分野を勉強していました。
見識が広まった彼は自身の人生をこう振り返っています。
「青年時代の私は成功にこだわりすぎた。野心に燃えすぎたのだ」
心を入れ替えた安左エ門は、鉄道事業に乗り出します。
自らも現場で泥だらけになりながら工事にあたり、事業をどのように成功させるかを考えたいました。
35歳になった頃、彼は鉄道の動力である電気に着目します。
発電や電力の供給が事業の発展のみならず、今後の日本に必要な要素であることに気づいたのです。
大正6(1917年)には実業家も兼ねながら衆議院議員も兼任し、大正10年には関西電気副社長に就任。
翌大正11年には関西電気と九州電灯鉄道を合併し、東邦電力(後の中部電力)を設立し、副社長として手腕を発揮、昭和3(1928年)年には社長となります。
安左エ門が率いる“東邦(とうほう)電力”は、九州・近畿・東海地方の一府十県にもわたる供給区域を誇る電力会社へと成長し、いつしか彼は電力王と呼ばれるようになっていきました。
しかし、時が経ち太平洋戦争の気配がただよい始めたときのこと。
大戦に備えて、国が電力の送電と発電を統制管理すると発表しました。
日本の発展は産業界の成長なくして行われないとする“自由主義経済”を唱えていた安左エ門は、軍部に協力する官僚への怒りを燃やし、こう言い放ちました。
「官僚は人間のクズである」
この発言が新聞の社会面で大体的に取り上げられると大問題となります。
国や他の財閥にとっては、安左エ門には早々に退場を願った方が都合が良かったことでしょう。
すでに61歳になっていた安左エ門は、発言の責任を取り、すべての仕事を辞めて隠居することとなりました。
電力の鬼
国の管制下にあった電力事業でしたが、1945年に日本が終戦をむかえると状況は一変します。
敗戦によって日本全土が電力不足になる中、日本を占領していたGHQが、「電気事業を政府から切り離せ」と指示したのです。
ただでさえ毎晩のように停電が起こっているというのに、それを民営化するという無茶に、当時の首相である吉田茂は頭を悩ませました。
こうした電力事業の再編に当たって白羽の矢が立ったのが、隠居中の安左エ門です。
電力業界を去ってから既に10年が経ち、齢74になった安左エ門は“電気事業再編成審議会”の会長に選出されることになります。
人生最後の大仕事を任された安左エ門。
「国民に電力を供給すること」ただ一点の使命を胸に、かつての電力王は電力の鬼と化します。
安左エ門は電力不足の状況を改善すべく、大量の電源を開発するプランを練り上げました。
彼は先にも話したように、電気事業は各社の競争による発展が欠かせないと考えていました。
そこで彼は、戦中に統合された日本発送電を含む全ての設備を分割して9つの配電会社に分配、地域ごとに電力配給の責任を持つ“九分割案”を提唱します。
しかし、安左エ門以外の他の委員や財界人は、中央の日本発送電を残す案を譲りませんでした。
大臣の中には“九分割案”に理解を示す者もいましたが、ごく少数が賛成したところで国会での決議は通りません。
そんな安左エ門の追い風になったのは、意外にも日本を占領していたGHQでした。
当初、GHQの電力分割案と安左エ門の案では折り合いつかず、話は平行線のままでした。
しかし、安左エ門がGHQに何度も通って説得に当たり続けると、彼の熱意に押されたGHQ側はとうとう折れます。
また、講和条約が結ばれ、占領政策から撤退しなければならなかったことも大きな理由でしょう。
マッカーサーから、「安左エ門の案を実行するように」と命令が下ったのです。
鬼の執念が勝った瞬間です。
しかし、プロジェクトの発足に当たって大きな問題となったのは、開発資金をどうするかでした。
「金がないというのなら、この僕がニセ札でも何でも作ってやる」
そんなことを口にしていた安左エ門でしたが、彼には考えがありました。
それこそが、安左エ門が嫌われる理由となった「電気料金の値上げ」です。
これを発表すると、全国では安左エ門へのすさまじいバッシングが起きました。
しかし彼は、「民衆が反対するのは実情がわからないからだ。 産業人や政治家が反対するのは、民衆にこびているからだ。憎まれ役はわしが一切引き受けるから、がんばれ!」とひるむ様子もなく部下を励まし続けました。
値上げ反対論者と対面した際は、耳が遠くて聞こえないフリをするなど、字の如く耳を貸すことはなかったそうです。
昭和26年(1951年)、大ブーイングのなかおよそ66%もの値上げを決行。
すると、低迷していた電力株が高騰し、電力業界が活性化し始めます。
得られた資金をもとに各地で十分な設備投資が可能になり、大規模な電源開発を行われていきました。
結果的にこの安左エ門による電気料金の値上げが、戦後の日本を経済大国へと発展させる大きな力になっていったのです。
その後も電力界の重鎮としても活躍し続け、96歳でその生涯に幕を閉じました。
また、昭和30年、安左エ門が80歳の頃が石油時代の到来とされていますが、彼は「20年後には原子力の時代が来る」とも予見しています。
ここまで来ると恐ろしいほどの聡明さですね……。
そんな、日本の未来を見続けた頑固者の横顔でした。
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