哲学

【韓非子㊳】人を動かすのは愛ではなく法(ルール)

哲学

【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

       

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

         

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

       

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

       

今回のテーマは“民は固(もと)より愛に驕(おご)り、威に聴く”です。

        

                            

                     

民は固より愛に驕り、威に聴く

【本文】

今、不才の子有り。

 

父母之(これ)を怒れども為に改っまらず、郷人之を譙(せ)むれども為に動かず、師長之を教うれども為に変ぜず。

 

夫(そ)れ父母の愛、郷仁の行い、師長の智を以てし、三美焉(これ)に加うるも、終(つい)に動かず。

 

其の脛毛も改まらざれども、州部の吏、官兵を操(と)り、公法を推して姦人を求策せば、然るに後恐懼(きょうく)し其の節を変じ、其の行いを易えん。

 

故に父母の愛も、以て子を教うるに足らず、必ず州部の厳刑を待つは、民は固より愛に驕(おご)り、威に聴けばなり。

 

故に十仭(じゅうじん)の城、楼季(ろうき)も踰(こ)ゆる能(あた)わざるは峭(けわ)しければなり。

 

千仭の山、跛牂(はそう)も牧し易きは夷(たい)らかなればなり。

 

故に明王は其の法を峭(けわ)しくして、其の刑を厳にするなり。

 

布帛(ふはく)の尋常なるは、庸人(ようじん)釈(す)てず。

 

鑠金(しゃくきん)の百鎰(ひゃくいつ)なるは、盗跖(とうせき)も掇(ひろ)わず。

 

必ずしも害せざるときは、則(すなわ)ち尋常を釈てず、必ず害するときは則ち手に百鎰を掇わず。

 

故に明主は其の誅を必するなり。

 

是(ここ)を以(もっ)て賞は厚くして信にし、民をして之(これ)を利とせしむるに如(し)くは莫(な)く、罰重くして必し、民をして之を畏れしむるに如くは莫く、法は一にして固く、民をして之を知らしむるに如くは莫し。

 

故に主賞を施すに遷(うつ)さず、誅を行うに赦(ゆる)す無く、誉れは其の賞を輔(たす)け、毀(そしり)は其の罰に随(したが)わば、則ち賢不肖(けんふしょう)倶(とも)に其の力を尽くさん。

 

【解釈】

今、たちの悪いわがままな子がおり、父母が叱っても改まらず、里人が責めても動かず、先生が教えても変わらないとする。

 

つまり、父母の愛情、里人の忠告、先生の知恵という三つの美徳によっても動かず、その脛の毛一本も改まらないという有様である。

 

ここに役人が兵を連れてきて、朝廷の法令を掲げて乗り込み、悪い奴はおらぬかと探し求めれば、その子はようやく縮み上がり、考えを変え、行いを改めるに違いない。

 

こういうわけで、父母の愛もこれで子を十分に教導することはできず、果ては役人をもって厳格な罰で臨んでもらわなければならない、というのは、人民がもともと愛情に対しては付けあがり、威力に対しては恐れ入るものだからである。

 

城壁の高さが十仭もあれば、楼季(跳躍が得意とされる魏に仕えた人物)でさえ乗り越えることはできないのは、高く突き立っているからである。

 

しかし、これが千仭の山であれば、足の悪い牝羊が容易く草を食いに登る。

 

だから賢明な王は、法律を城壁のように突き立て刑罰を厳しくする。

 

そもそも布の一巻き、二巻きくらいならば、それが道に落ちているのを誰も見逃さない。(拾って自分のものにしてしまう)

 

しかし、金百両ともなると盗跖(魯時代の盗賊団の親分)と言えども警戒し、うっかり拾うことはないだろう。

 

つまり、害がないと思えば人は布程度なら拾い、必ず害があると分かれば金百両とて拾い取らない。

 

だから明君は罰を厳しくするのである。

 

従って、賞は厚くして必ず与え、民に賞与を得なものと思わせ働かせるにこしたことはなく、罰は重くして必ず行い、民に処罰を恐れさせ法を守らせるに越したことはない。

  

法は一定にしてみだりに変えず、民に周知させるのだ。

 

君主が、賞を人に与えるのに暇をかけず、罰を行うには決して容赦せず、そして名誉は賞についてまわり、悪名は罰に伴う、というふうになれば、人民はその才能に応じて力の限り働くだろう。

 

 

人を動かすのはルール

近しい人の言葉よりも厳格に決められたルールによって人は動く、ということを述べた節でしたね。

 

仁や愛によって人が善い方向に動くのを期待するのではなく、良いと悪いことを明確に決めて規律にすること、組織安定の為に必要であると述べています。

 

良い行いには必ず褒賞を、悪い行いには必ず刑罰を与える。

 

もし、「あいつは知り合いだからと……」言って特別扱いしようものならば、その規律は軽く見られ組織崩壊の糸口になってしまうことも、韓非子の他の節にて説かれています。

 

これは組織のみならず、子育てなどにも同様に当てはまります。

 

経験上、日々の課題など“やるべきことをやったら遊びなどの自由を得られる”ということをルールにする家庭は多いです。

 

しかしそのルールがあるからといって、子は思い通りに動いてくれるとは限りません。

 

むしろ、やらずに遊ぼうとする子の方が多いです。

 

ではどうやったやるべきことを先にやる子になるのでしょうか。

 

その答えは簡単で、ルールをしっかり守らせることです。

 

“できる課題はやらせてから自由を与える、そしてやったらその過程も褒める”

 

以上です。

 

逆にやってはいけないのは、やることをやっていないけど頑張ったから自由を与えることです。

 

多くの家庭を見てきましたが、このルールをなぁなぁにしてしまい、その結果自制心が身に付かないという例が多くありました。

 

ルールを守らせるということは、決めた側もしっかりその通りに動かすということです。

 

それでも本当にどうにもならないときはまた一考の余地ありですが、ほとんどはこれで解決できます。

 

そんな家庭という組織のルールについても、韓非子では述べられていたのですね。

 

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