哲学

【韓非子⑲】欲に左右されない心をもつ

哲学

【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

      

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

       

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

     

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

     

今回のテーマは“徳は内なり、得は外なり”です。

    

      

     

徳は内なり、得は外なり

【本文】

徳は内なり、得は外なり。

 

上徳は徳ならずとは、其の神外に淫せざるを言うなり。

 

神外に淫せずば則(すなわ)ち身全からん。

 

身の全きを徳と謂(い)う。

 

徳とは身を得ることなり。

 

凡(およ)そ徳は無為を以て集まり、無欲を以て成り、思わざるを以て安く、用いざるを以て固し。

 

之(これ)を為し之を欲せば、則ち徳舎(やど)ること無く、徳舎ることなくば、則ち全からざらん。

 

之を用いて之を思わば、則ち固からず、固からずば則ち功無からん。

 

功無きは則ち得に生ず。

 

得んとせば則ち得無く、得んとせばずば則ち徳あらん。

 

故に曰わく、上徳は徳ならず、是(ここ)を以て徳有り。

 

為す無く思う無く、虚を為すを貴(たっと)ぶ所以は、其の意の制せざるる所無きを謂うなり。

 

夫(か)の術無き者は、故(ことさら)に為す無く思う無きを以て虚を為す。

 

夫の故に為す無く思う無きを以て虚を為す者は、其の意常に虚を忘れず、是れ虚を為すに制せらるるなり、虚とは、其の意の制せらるること無きを謂うなり、今虚を為すに制せらるるは、是れ虚ならざるなり。

 

虚なる者の為す無きは、為す無きを以て有常と為さず、為す無きを以て有常と為さずば、則ち虚、虚ならば則ち徳盛んならん。

 

徳盛んなるを上徳と謂う。

 

故に曰わく、上徳は為す無くして而も為さざる無きなり、と。

  

【解釈】

徳とは内面のものであり、得とは外面のものである。

 

故に上徳は徳ならずとは、精神が充実しておれば外面で動揺することはない。

 

高い徳操(意思によって固く守られた道徳心)は、外面の利得などとは関係がないため、周りがどうであっても動揺することがない。

 

もし精神が充実して外面で動揺することがないならば、その人格は完全だろう。

 

人格が完全であることを“徳ができた”と言う。

 

つまり徳とは、人格があってこそ成し得ることなのである。

 

徳は無欲と無為とで成されるものである。

 

すなわち、何か思うところもなく、心が動かされることもなければ心身は損ぜられない。

 

もし、欲をかき事を成そうとすれば、徳は安定せず、安定せずして徳の完成はない。

 

また、何か気がかりなところがあって事(や身体)を動かすならば、心身が損ぜられ、損ぜられれば功はない。

 

功が無いのは得の気持ちに妨げられるからである。

 

したがって、得をしようとすれば(何かを獲得しようとすれば)我が徳は成らず、得の気持ちがなくてこそ徳を得られるのである。

 

さらに老子は、上徳は徳(得)でない、徳(得)でなければこそ徳が保たれる、と言ったのである。 

 

そもそも、賢人が思うところなく、為すことなく、ひたすら虚の心になることを尊ぶわけは、心を虚にするれば意思は何者にも支配されず自由になれるからである。

 

かの道を知らぬ者は、ことさらに何もなさずに何も思わない、という事を修養の法にして、それで虚の心に達しようと努める。

 

しかし、そのように努めるのでは、意思はか却(かえ)って“虚を忘れることができず”、虚の心になりたいとうことに支配されてしまうのである。

 

虚の心とは、意思が何者にも支配されないことであるのに、虚になりたいということに心が支配されては虚ではない。

 

虚の心になった人の何もなさぬその様を見るに、何もなさらぬことを常としているのであって、そうであればこそ虚の心を持てるのである。

 

こうして虚に達すれば徳は大きくなり、その大きくなった徳を上徳という。

 

故に老子はまた言う。

 

「上徳は何もなさずにいて、しかも何事をも成すのである」と。

 

  

欲に左右されない心をもつ

韓非が老子の言葉を注釈していく“老解篇”の引用です。

 

をその人の精神の豊かさなどの内面の獲得を財産や身分など何か欲することによる外面的な獲得と位置付けて話しています。

 

得の気持ちを無くすことで、賢人が持つ徳の精神を手に入れることができるとしています。

 

徳の精神を持つことで、周りの雑音に左右されず、冷静に物事を見極められると言っています。

 

これまでに韓非が繰り返し伝えている、「法によって決めた賞罰は例外なく、贔屓なく、君主自らの意思によって与えよ」を実行するための心構えと言えますね。

 

“自分が得をするために誰かに有利な判決を下したり、身内だからと言って甘い罰を与えると、それらを利用して足元すくわれる……”という危険を根本から排除するための考え方であることが分かります。

 

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