哲学

【韓非子⑳】見返りを期待せず礼を尽くすべし

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【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

      

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

       

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

     

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

     

今回のテーマは“仁とは、其の中心欣然(きんぜん)として人を愛す”です。

    

      

     

仁とは、其の中心欣然として人を愛す

【本文】

仁とは、其の中心欣然として人を愛すを謂うなり。

 

其の人の福有るを喜びて、禍(わざわ)い有るを悪(にく)むや、心の已(や)むこと能(あた)わざる所に生ずるなり、其の報いを求むるに非(あら)ざるなり。

 

故に曰わく、上仁(じょうじん)は、之(これ)を為して而(しか)も以て為す無きなり、と。

 

義とは、君臣上下(くんしんしょうか)の事なり、父子貴賤(ふしきせん)の差なり、知交朋友(ちこうほうゆう)の接なり、親疎内外の分なり。

 

臣、君に事(つか)えて宜(よろ)しき、下、上に懐(なつ)きて、宜しき、子、父に事えて宜しき、賤、貴を敬して宜しき、知交朋友の相助くるや宜しき、親しきは内にして疎きは外なるの宜しき、義とは其の宜しきを謂うなり、宜しくして之を為す。

 

故に曰わく、上義は之を為して、而も以て為す有るなり、と。

 

礼とは情の尨(ぼう)なる所以なり、群義の文章なり、君臣の交わりなり、貴賤不肖の別るる所以なり。

 

中心懐(おもう)も諭られず、故に疾(と)く趨(はし)り卑(ひく)く拝して之(これ)を明らかにす。

 

実心愛するも知られず、故に言を好(よ)くし辞を繁くして以て之を信にす。

 

礼は外飾をもて内を諭す所以なり、故に曰わく、礼は情貌(じょうぼう)を以てするなり、と。

 

凡そ人の外物の為に動くや、其の身の為にするの礼なるを知らざるなり。

 

衆人の礼を為すや、以て他人を尊ぶなり。

 

故に時勧み時に衰う。

 

君子の礼を為すは、以て其の身の為にす。

 

以て其の身の為にす、故に之を神にする上礼と為す。

 

上礼は神にして衆人は弐(じ)にす、故に相応ずること能わず、相応ずる事能わず、故に曰わく、上礼は、之を為して而も之に応ずるもの莫(な)し、と。

 

衆人は弐にすと雖(いえど)も、聖人は恭敬(きょうけい)を復(ふ)み、手足(しゅそく)の礼を尽くすや衰えざるなり。

 

故に曰わく、臂(ひじ)を攘(かか)げて之により仍(よ)る、と。

 

【解釈】

仁とは自らの心の内から欣然(喜んで)として人を愛することである。

 

その人に福があることを喜び、災いがあることを憎むことであり、自らの心からあふれ出る気持ちであり、見返りを期待するものではない。

 

故に老子は言う。

 

「上仁とはこれを行なっていても行なった覚えのない心のことである」と。

 

義とは、君と臣、上と下、父と子、貴と賤における関係のことであり、知人や朋友との交際の基本であり、親と疎、近と遠などの区別である。

 

臣が君に仕え、下が上を大切にし、子が父に仕え、身分の低い方が高い方を尊び、知人同士、朋友同士が助け合い、親しい者は内に、疎い者は外にと区別する、この様々な場合に、相応しい対応をするのが義である。

 

つまり義とは宜(適宜)である、程度をわきまえるものである。

 

故に老子は言う。

 

「上義は、これを行うのに、十分気を付けて行うのである」と。

 

礼とは心の内を形に表すものであり、様々な義に付いてまわる飾りのようなものである、君と臣、父と子などにおける応接の道であり、貴と賤、賢と愚などにおける差別の仕方である。

 

例えば、私が誰かを心の底から敬っていても、それだけでは相手に通じない。

 

そこで相手に進み寄って、身を低くして拝み、心の内を明らかにする。

 

また、私が真心でだれかを愛していても、相手はそれを知らない。

 

そこで言葉を美しくし、口数も多くして愛情を表に出す。

 

つまり礼とは外面に飾りをつけて心の中を相手に伝える方法である。

 

しかし、一般には人は外物の為に身を動かすものだから、礼は我が身の為に行うこととは知らない。

 

礼を行うとき、多くの者が形の上で相手をおだてようと言うのだ。

 

だから彼らの礼は時にはぞんざいになる。

 

しかし君子が礼を行うのは、礼をもって心の中を相手に伝えたいと思い、我が身のためにする。

 

我が身のために心を偽らず行うのが上礼である。

 

上礼は心を偽らぬものであるが、多くの人は礼と心の内を裏腹にするため、上礼と多くの人々の礼とは互いに通じることがない。

 

そこで老子は言う。

 

「上礼は、それを行なっても返礼されないものである」と。

 

聖人は心から恭礼(礼儀正しくつつしむ)を繰り返し行い、手足の作法を尽くして、いい加減に行わない。

 

故に老子は言う。

 

「衣の袖を擦り合わせながら、相手に近づき礼を行う」と。

 

 

見返りを期待せず礼を尽くすべし

聖人は見返りを期待せずに礼儀を重んじ、且つそれを行なっている意識もない者であると述べています。

 

前半で述べた徳と得についての話に通じることですね。

 

老子の言う仁義とは何なのか、愛するとは何なのか。

 

それは他者を尊び、報酬を期待するのではなく、行動によって相手に心の内を伝えることである……。

 

そんな礼の尽くし方について触れられた節でした。

 

現代においても、“与える事を考える人、受け取る人を考える人、両方のバランスを考える人”の中では、与える事を考える人(相手に尽くせる人)が最も成功しやすく、心豊かに過ごすことができるということはよく言われます。

 

老化の言葉と韓非の解釈は、そんな考えに通じるものを見て取れますね。

 

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