ブーヴィーヌの戦い
1214年、「フランス」VS「イングランド&神聖ローマ帝国を含む連合軍」の間に起きた戦争があります。
このときフランス軍はおよそ15,000人。
対し、連合軍はおよそ25,000人。
1万の勢力差がありながらも、フランス王国が勝利した「ブーヴィーヌの戦い」です。
戦争前のフランス領の拡大
戦い前の勢力図は、フランス領の周りをイングランドや神聖ローマ帝国が取り囲んでいる状態でした。
イングランド王国のプランタジネット朝が支配する領地にはフランス領も含まれていました。
しかし実際はイングランド王家がフランス領を支配している状況でした。
こんな状態ではフランス王国の勢力拡大などできないと感じた国王フィリップ二世は、プランタジネット朝の領地を次々と没収していきます。
最終的にプランタジネット朝は、フランス南西部のアキテーヌ周辺まで追いやられてしまいます。
イングランド王と神聖ローマ皇帝の結託
これに黙って見過ごせないのが、イングランド王ジョンです。
先代の王から土地を与えられなかったことから「欠地王」と呼ばれた王様です。
今回のブーヴィーヌの戦いによって膨大な国土を失ったことや、その後の領地の回復ができなかったことから、「失地王」と呼ばれるようになりました。
ジョンは、すぐさまフランス領の向こう側にある、神聖ローマ帝国に軍事同盟の打診をしました。
当時の神聖ローマ帝国の皇帝オットー四世はこの打診に同意。
ここにイングランド王国と神聖ローマ帝国からなる連合軍が結成されました。
オットー四世がこの同盟に同意した理由は、フランス王がオットー四世と政治的に敵対している、フリードリヒを支持していたためとされています。
こうして、イングランドと神聖ローマ帝国のもと、軍事的な配下に収まっている諸国を連れ、対フランス軍事同盟が作られることになるのです。
戦いの結果は連合軍ではなく、フランス軍の勝利。
負けた失地王ジョンは、帰国した後戦争にてガタガタになった国の財政を立て直そうとします。
海外遠征を支援しなかった貴族に重税を課そうとしたのです。
これに貴族たちは猛反対。
1415年の夏には、彼らによってロンドンが制圧される事態となるのです。
この反抗が、大憲章マグナ・カルタに繋がっていきます。
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