アルツハイマー病の治療法開発は、長年にわたって多くの研究者が挑み続けてきた課題です。
脳内で異常なタンパク質が蓄積し、記憶や認知機能が徐々に損なわれていくこの病は、世界で5500万人以上の人々に影響を及ぼしています。
世界的な高齢化が進む昨今、今後25年間ではその数は倍増すると予測されています。
こうした中、アメリカの研究チームが、すでに承認されている2種類のがん治療薬にアルツハイマー病の進行を逆転させる可能性があることを発見しました。
研究は2025年に学術誌『Cell』に発表され、従来の治療法とは異なる新たな道を示しています。
今回は、そんながんの治療薬がもたらした新たな知見についてまとめます。
参考記事)
・Scientists Found 2 Existing Drugs Can Reverse Alzheimer’s Brain Damage in Mice(2025/11/06)
参考研究)
・Cell-type-directed network-correcting combination therapy for Alzheimer’s disease(2025/07/21)
既存のがん治療薬に隠された可能性

今回の研究を主導したのは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の研究者たちです。
彼らは、アルツハイマー病患者の脳内でどのように遺伝子発現が変化するのかを詳細に解析することから始めました。
次に、医薬品の効果と遺伝子変化の関連性を示すデータベース「Connectivity Map」を用い、これらの異常な遺伝子発現を“逆転”させる作用を持つ薬剤を探索しました。
その結果、乳がん治療に用いられるレトロゾール(letrozole)と、大腸がんや肺がんの治療に使われるイリノテカン(irinotecan)という2つの薬が候補に浮上しました。
【用語】
アンドロゲンからのエストロゲン生成を阻害し、乳癌の増殖を抑制する薬剤
I型DNAトポイソメラーゼを阻害することによって、がん細胞のDNA合成を阻害する
いずれもアメリカ食品医薬品局(FDA)に承認されている薬であり、これが示唆するのは、臨床試験への移行が他の新薬開発に比べて早期に進む可能性があるという点です。
コンピュータ解析が導いた「遺伝子発現の逆転」
研究チームを率いた計算生物学者のMarina Sirota博士(UCサンフランシスコ)は、次のように説明しています。
「アルツハイマー病は、脳内で複雑な変化が同時多発的に起こるため、これまでの研究や治療は極めて困難だった。しかし、私たちの計算解析ツールを用いることで、その複雑さを直接解析する道が開けた。」
Sirota博士らは、膨大なデータを統合的に解析し、遺伝子発現の変化と薬剤の作用を照合しました。
その結果、レトロゾールとイリノテカンがともにアルツハイマーに関連する遺伝子変化を反転させることが分かりました。

さらに、これらの薬をがん治療の一環として投与されていた患者の医療記録を調べると、アルツハイマー病を発症するリスクが低下していた可能性も示されました。
ただし、この点については因果関係が明確に証明されたわけではなく、今後の検証が必要です。
マウス実験で確認された「脳損傷の回復」
研究者たちは続いて、アルツハイマー病モデルマウスを用いて、これらの薬が実際にどのような効果をもたらすかを検証しました。
すると、両方の薬を組み合わせて投与することで、脳内の変性や神経細胞の損傷が一部回復することが確認されました。
アルツハイマー病の主要な特徴のひとつであるタウタンパク質の異常な蓄積が著しく減少し、マウスは学習能力や記憶力のテストで明らかな改善を示しました。
研究チームによると、レトロゾールは主に神経細胞(ニューロン)に作用し、イリノテカンはグリア細胞に作用することがわかりました。
この「細胞ごとに異なるアプローチ」を組み合わせたことで、より広範な効果が得られたと考えられています。
UCサンフランシスコおよびグラッドストーン研究所の神経科学者Yadong Huang博士はこう述べています。
「アルツハイマー病は、数多くの遺伝子やタンパク質の変化が複雑に絡み合って発症する病気である。伝統的な薬の開発手法では、特定の分子を標的にした“1対1”の治療しか行えない。しかし、今回の発見は、複雑な遺伝的変化を包括的に捉える治療法の可能性を示している。」
「既存薬の再利用」への期待と課題

この研究の最大の特徴は、新薬を一から開発するのではなく、すでに承認済みの薬を新しい疾患に再利用する点にあります。
これにより、臨床試験や安全性審査にかかる時間とコストを大幅に削減できる可能性があります。
一方で、マウスでの実験結果が人間でも同様に再現されるかどうかは、まだ分かっていません。
イリノテカンやレトロゾールは抗がん剤であり、重い副作用を伴うこともあります。
したがって、アルツハイマー病に転用する場合は、そのリスクとベネフィットを慎重に評価する必要があります。
研究チームは、今後のステップとしてアルツハイマー病患者を対象とした臨床試験の実施を計画しています。
さらに、個々の患者における遺伝子発現の違いを考慮し、より個別化された治療法を開発することを目指していると述べています。
遺伝情報に基づく「個別化医療」への道
今回の研究は、単に薬の候補を見つけたというだけではありません。
異なるデータソースを統合して治療法を導き出すという新しい研究アプローチを示した点でも注目されています。
現在、世界でアルツハイマー病を患う人は5500万人を超えており、この数字は今後25年で倍増する見込みです。
もし今回の研究成果が臨床レベルで実証されれば、認知症医療の在り方を根本から変える可能性があります。
さらに、今回の手法はアルツハイマー病に限らず、他の神経変性疾患やがん、自己免疫疾患などの研究にも応用できる可能性があるとされています。
コンピュータ解析と既存薬の再評価という組み合わせは、医学研究における新たなスタンダードになるかもしれません。
まとめ
・乳がん薬レトロゾールと大腸がん薬イリノテカンが、アルツハイマー病モデルマウスの脳損傷を改善する効果を示した
・両薬剤は異なる脳細胞(ニューロンとグリア)に作用し、タウタンパク質の蓄積を減少させ、記憶力を改善した
・ヒトでの臨床試験は今後の課題であり、副作用のリスク評価や個別化医療への応用が鍵となる


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