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【世界に潜むラテン語⑦】大航海時代の名残りとコロンブス

雑学

【前回記事】

 

この記事は、書籍「世界はラテン語でできている」を読んで興味深かった内容について抜粋して紹介する記事です。

  

世界はラテン語でできている  Amazonより

    

この本は、古代ローマから用いられてきた言語が現代にどのように残っているのかについて書かれています。 

    

政治、宗教、科学だけでなく、美術やゲームなど幅いジャンルに浸透している言葉について知ることで、世の中の解像度が上がって世界が少し楽しくなるかもしれません。

   

今回のテーマは、“大航海時代の名残りとコロンブス”についてです。

 

 

大航海時代の名残り

〜引用&要約〜

ペストの猛威が一旦の収まりを見せた15世紀、この頃ヨーロッパの歴史において大きな転換期となる 「大航海時代」が始まります。

 

海を渡る冒険家が登場し、スペインやポルトガルを主としたヨーロッパ諸国がアジア、アフリカ、アメリカ大陸に本格的に進出しました。

 

オーストラリアは、この大航海時代に関わりのある国名で、元はラテン語の“Terra Australis(南の土地)”でした。

 

しかし考えてみると、確かにオーストラリアは南半球にはありますが、仮にそのような名付け方であったなら南半球にある土地全てが「南」、北半球にある土地なら「北」が語源の地名になってしまいます。

 

これは、オーストラリアの語源となる「南」は、大航海時代のヨーロッパ人から見た「南」を指すということから来ています。

 

例えば1570年にオルテリウスによって作られた世界地図には、オーストラリアを含む南極に近い土地は「未だ知られていない南の地(ラテン語でTerra Australis Nondum Cognita)」と記され、 一つの大きな大陸のように描かれています。

 

アブラハム・オルテリウスが作成した世界地図(1570年作成)

 

その当時、オーストラリアに上陸したことのあるヨーロッパ人は皆無であり、オーストラリア大陸の地形も知られていませんでした。

 

ざっくりと南の方角に広大な土地が広がっているだろうと考えられており、そういった背景から“Terra Australis(南の土地)”を経て、オーストラリアの国名として残ったのです。

 

 

ラテン語で明らかにされたコロンブスの航海

クリストファー・コロンブス (1451~1506年)

 

大航海時代を生きた人物として、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマと並んで有名な人物といえばやはりこの人、クリストファー・コロンブスでしょう。

 

インドを目指すもそこにたどり着くことはなく、代わりにアメリカ大陸の存在を「発見」したと伝えられている人物です。

 

彼の名はアメリカ合衆国を擬人化した呼び名Columbia、 あるいは南アメリカ大陸にある国Colombia(コロンビア ) などの元にもなっています。

 

また、アメリカ合衆国の首都で あるワシントンD.C.のD.C.は“District of Columbia(コロンビア特別区)”の略です。

 

コロンブスの航海の詳細は、同時代人のペドロ・マルティ (1457~1526)が本にしています。

 

彼はコロンブスとの文通し、コロンブスとともに海を渡った人たちにもインタビューをしていました。

 

彼の本の名前は“De Orbe Novo Decades(新世界について)” といい、ラテン語で書かれた書物です。

 

De Orbe Novo Decades(1530年著)

 

この本が刊行された16世紀前半のヨーロッパでは、ラテン語で書物を書くことはまだまだ一般的でした。

 

では「新世界について」 ではコロンブスの航海がどのよ うに描かれていたのか、少し内容をのぞいてみましょう。

 

【原文抜粋】

Ab his igitur insulis Colonus occidentem solem semper secutus, licet in laevam paulisper, tres et triginta continuos dies caelo tantum et aqua contentus navigavit.

Hispani comites murmurare primum tacite coeperunt.

Mox apertis conviciis urgere, de perimendo cogitare, demum vel in mare proiiciendo consulebatur: se deceptos fuisse ab homine Ligure, in praeceps trahi  qua numquam redire licebit.

Post tricesimum iam diem furore perciti proclamabant ut reducerentur, ne ulterius procederet stimulabant hominem.

Ipse vero blandis modo verbis, ampla spe modo, diem ex die protrahens, iratos mulcebat, depascebat.

Optatum tandem terrae prospectum laeti suscipiunt. 

 

【訳】

「コロンブスはそれらの島々から離れ常に西に進み、 左手(南の方向) に進むこともあったが、33日の間休みなく、空気と水だけで満足して航海した。

同行人だったスペイン人たちは、まずはひそかに不満を口にしはじめた。

やがて船員たちはあからさまに罵倒してコロンブスを責め立て、彼の殺害さえも考えた。

 海に投げ捨てることも計画されていた。

船員たちは、「俺たちはあのリグーリア人(コロンブス)に騙されて、 決して戻れないところに連れて行かれているのだ」 考えたのだ。

30日が経った後、怒りのあまり船員は自分たちを 帰してくれと要求し、これ以上進まないようにコロンブスを駆り立てようとした。

一方、彼(コロンブス)は、一日一日と時間稼ぎをし、時に優しい言葉で怒る船員たちをなだめ、時に大きな希望を彼らに与えていた。

そしてついに、待ち望んでいた陸地の景色を目の当たりにし、船員たちも喜んだ」

  

ここに引用したのはほんの一部分ですが、大航海時代の冒険がいかに命がけだったかがお分かりいただけるのではないでしょうか。

 

無駄死にするかもしれない長い船旅の中で、船員たちやコロンブスの葛藤は私たちの想像する以上のものだったでしょうね。

〜引用&要約ここまで〜

 

当時、世界を支配していた人たちの名残はラテン語を通じ、大陸を超えて刻まれているようですね。

 

コロンブスやアメリゴ・ヴェスプッチら探検家がアメリカ大陸を発見したことは、先住民たちにとって必ずしも良いことではなかったかもしれませんが、その歴史の上で現在の人権という観念が出来上がっていったことは確かだといえます。

 

これについてはまた話が広がるので、今回は触れずに置いておきましょう。

 

そうそう、コロンブスはインドではなくアメリカ大陸の一部(西インド諸島)を発見したとされていますが、本人はずっと「あそこはインドである」と言い張っていたそうな……。

 

アダム・スミスの「国富論」でも、そのことが皮肉的に触れられていたりしていましたが、多分本人は気づいていたように感じます。

 

このことも別の記事にてまとめているので気になる方はぜひに!

 

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