【前回記事】
この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書“韓非子”についてまとめていきます。
韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。
そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。
【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。
今回のテーマは“世の顕学(けんがく)は儒墨(じゅぼく)なり”です。
世の顕学は儒墨なり
【本文】
世の顕学は儒墨なり。
儒の至る所が孔丘なり、墨の至る所は墨翟(ぼくてき)なり。
孔子の死してより、子張の儒有り、子思の儒有り、顔氏(がんし)の儒有り、孟子の儒有り、漆雕(しっちょう)氏の儒有り、仲良(ちゅうりょう)氏・孫氏の儒有り、楽正(がくせい)氏の儒有り。
墨子の死してより、相里(しょうり)氏の墨有り、相夫(しょうふ)氏の墨有り、隥陵(とうりょう)氏の墨有り。
故に孔・墨の後、儒分かれて八と為(な)り、墨離れて三と為る。
取捨相反して同じからず、而(しか)も皆自ら真の孔・墨と謂(い)う。
孔・墨復(ま)た生く可(べ)からず、将(は)た誰をして後世の学を定めしめんや。
孔子・墨子、倶(とも)に尭・舜を道(い)いて、而も取捨同じからず。
皆自ら真の尭・舜と謂う。
尭・舜復た生きず、将(は)た誰をして儒・墨誠(まこと)を定めしめんや。
殷・周は七百余歳、虞・夏は二千余歳、而(しか)して儒・墨の真を定むること能わず、今乃(すなわ)ち尭・舜の道を三千歳の前に審(つまび)らかにせんと欲す。
意(おも)うに其(そ)れ必す可からざらんか。
参験(さんけん)無くして之(これ)を必する者は愚なり、必すること能わずして之に拠(よ)る者は誣(ふ)なり。
故に明らかに先王拠り、必ず尭・舜を定むる者は、愚に非ずば則(すなわ)ち誣ならん。
愚誣(ぐふ)の学、雑反の行は、明主受けざるなり。
【解釈】
今の世で偉い先生と言えば、儒家か墨家が挙げられるだろう。
ところで、儒家が目指す所は孔丘であり、墨者が目指す所は墨翟である。
その孔子がこの世を去ってから、子張・子思・顔氏・孟子・漆雕氏・仲良氏・孫氏・楽正氏などの派ができた。
また墨子が亡くなってから、相里氏・相夫氏・隥陵氏などの派ができた。
つまり孔・墨の死後、儒は八つの派に分かれ、墨は三つの派に分かれたわけである。
各派の主張は相反して同じではないのにも関わらず、皆我の派こそ真の孔子を、真の墨子を教える、と称している。
しかし、孔・墨が生き返るなんてことはありはしない。
さて、誰に後世の学を鑑定してもらおうものか。
また孔子と墨子は共に尭・舜の道を唱えたのだが、この二人も共に我こそが真の尭・舜を伝えると称した。
尭・舜が生き返るなんてことはありはしない。
さて、誰に孔子と墨子のどちらが正しいかを鑑定してもらおうものか。
今から700年余り遡ると、世は殷・周の時代であり、2000年余り遡ると尭・舜の時代であったが、すでに儒・墨のどちらが正しいかをさえ定めかねているのに、それも顧みもせずに、今から3000年も昔に遡って尭・舜の道を解き明かそうとする。(そういった者たちが儒・墨の学者である)
恐らく確かなことは分からないだろう。
照らし合わせる証拠も無しに、確かだと決めつけるのは愚かであり、確かなことが分からないのにそれを根拠とするのは誣(でまかせ)である。
こういったことから古代賢王を根拠とすることや、尭・舜の道はこうだと断定するのは、愚か者か嘘つきかのどちらかである。
明君は、愚・誣の学説や基準の一定しない道徳などは受け付けないのである。
根拠が明確でないのに断定するのは愚か者である
韓非による儒家・墨家批判の節ですね。
彼らの死後に各派に分かれ、それぞれの主張が違うにもかかわらず、各々自分が正しいと述べる……。
もしかしたらその中に答えがあるかもしれませんが、それを確かめる術はありません。
いくら考えても仕方ないのなら、そういった意見に惑わされず現在の課題に向き合うべきという解釈もできます。
現代においても、根拠なく誰かを叩いたり、根拠があってもそれを知ろうとせず感情で行動したりといったことが見受けられます。
しかし、世の中のほとんどのことは自分とは関係ありません。
そんなことでストレスがかかるよりは、未来の自分がより良く生きるために今何ができるかを考えて行動した方がよっぽど生産的だと感じます。
そんな、外部の雑音に左右されず自分と向き合う大切さを認識させてくれる節でもあります。
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