【前回記事】
この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書“韓非子”についてまとめていきます。
人も書も法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。
そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。
【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。
今回のテーマは“奚かを過ちて而も忠心に聴かずと謂う”です。
奚(なに)かを過ちて而(しか)も忠心(ちゅうしん)に聴かずと謂う
【本文】
奚(なに)かを過ちて而(しか)も忠心(ちゅうしん)に聴かずと謂う。
昔者(むかし)斉の桓公、諸侯を九合(きゅうごう)し、天下を一匡し、五伯の長と為る。
管仲(かんちゅう)之を佐(たす)く。
管仲老い、事を用うる能(あた)わず、家に休居す。
桓公従って之を問うて曰わく、仲父(ちゅうほ)家居し病有り、即(も)し不幸にして此の病より起たずば、政や安にか之を遷さむ、と。
管仲曰わく、臣老いたり、問う可(べ)からざるなり、然りと雖(いえど)も臣之を聞く、臣を知ること君に若(し)くもの莫(な)く、子を知ること父に若くもの莫しと、君其れ試みに心を以って決せよ、と。
君曰わく、鮑叔牙(ほうしゅくが)は如何、と。
管仲曰わく、不可、夫(そ)れ鮑叔牙の人と為(な)りや、剛愎にして悍を上(たっと)ぶ、剛ならば則(すなわ)ち民を犯すに暴を以ってし、愎ならば則ち民心を得ず、悍ならば則ち下用を為さず、其の心に懼(おそ)れざらん、覇者の佐に非るなり、と。
桓公曰わく、然らば則ち豎刁(じゅちょう)は如何、と。
管仲曰わく、不可、夫れ人の情、其の身を愛せざる莫(な)し、公妬にして而も内を好む、豎刁自獖(じふん)して以って為に内を治む、其み身すら愛せずに、又安(またいずく)んぞ能く君を愛せん、と。
曰わく、然わば則ち公子開方(かいほう)は如何、と。
管仲曰わく、不可、斉・衛の間、十日の行に過ぎず、開方君に事(つか)え君んい適(かな)わんと欲するが為の故に、十五年、帰りて其の父母に見(まみ)えず、此れ人情に非(あら)ざるなり、其の父母に之れ親しまざるなり、又能く君に親しまんや、と。
桓公曰わく、然らば則ち易牙(えきが)は如何、と。
管仲曰わく、不可、夫の易牙、君の為に味を司る、君の未だ嘗(かつ)て食らわざる所は、唯人肉のみ、易牙其の首子を蒸して之を進めしは、君も知るところならん、人に情其の子を愛せざる莫し、今其の子を蒸して以って膳を君に為す、其の子をすら愛せず、又安(いずく)んぞ能く君を愛せんや、と。
桓公曰わく、然らば則ち孰(たれ)か可なる、と。
管仲曰わく、隰朋(しゅうほう)可なり、其の人と為りや、中に堅にして外に廉、欲少なくして信多し、夫(そ)れ中に堅ならば則ち以って表為るに足り、外に廉ならば則ち以って大いに任ず可(べ)く、欲少なくば則ち能く其の衆に臨み、信多くば能く隣国に親しまん、此れ覇者の佐なり、君其れ之を用いよ、と。
君曰わく、諾(だく)、と。
居ること一年余、管仲死す。
君遂に隰朋を用いず、而(しこう)して豎刁に与う。
豎刁事に莅(のぞ)みて三年、桓公南の方堂阜(どうふ)に遊ぶ。
豎刁、易牙、衛の公子開方及び大臣を率いて乱を為す。
桓公乾きに餒(う)え、而して南門の寝、公守の室にて死す。
身死して三月納められず、虫戸より出ず。
故に桓公の兵、天下に横行し、五伯の長と為り、卒(つい)に其の臣に弑(しい)せ見(ら)れて、高名を滅ぼし、天下の笑いと為る者は何ぞや。
管仲を用いざるの過ちなり。
故に曰わく、過ちて而(しか)も忠臣に聴かず、独り其の意を行うは、則ち其の公高名を滅ぼし、人の笑いと為るの始まりなり、と。
【解釈】
過ちを犯したにもかかわらず、忠実な部下の警告を聞かないとはどのようなことか。
昔、斉の君主であった桓公は、諸侯と次々同盟を結び、五つの国を治めたとされている。
管仲は桓公の五覇を補佐した側近である。
管仲が老いによる身体の不調によって家に引きこもり休んでいると、桓公が訪ねてきて管仲に問うた。
もし管仲が不幸にしてこの病から立ち上がれなかったとしたら、執政をどこに移そうか。
管仲は、「私は老いぼれました、お尋ねにも応じかねます。しかしながら、臣下を見分けるのは君が最も上手く、子を見抜くのは父が最も上手いと聞いています。君にわかりましても、自分の考えで決めてごらんなさいませ。」と述べた
桓公は「鮑叔牙(ほうしゅくが)はどうか」。
対し、管仲は「ダメでございます。叔牙は手強くで、意地っ張りで、おごり高ぶる性格があります。彼は力ずくで民を扱い、人望も得られず、下の人々が動いてくれず、危機感もないため、覇者の補佐には向いていません」。
次に桓公は「豎刁(じゅちょう)はどうか」。
対し、管仲は「ダメでございます。そもそも人情として誰しも我が身は大切であるのに、あの男は貴方様の期待に沿うためだけに自ら宦官になって後宮の司となりました。我が身すら大切にするのに、どうして、主君を愛しましょう」。
次に桓公は「衛国の公子開方(かいほう)はどうか」。
対し、管仲は「ダメでございます。斉と衛の関係はまだ深くありません。また、開方はあなたに気に入られるために15年の間、父母の元に帰っていません。これは人情に背きます。己の父母にも親しみを抱かず、どうして君主に親しみを抱きましょう」。
次に桓公は「ならば易牙(えきが)はどうか」。
対し、管仲は「ダメでございます。易牙はあなたの為に味を司る者ですが、あなたがまだ召し上がったことのない者は人の肉だけでした。ところがあの者は、己の長男を殺し、その肉を蒸して進めました。人情としては我が子を愛さぬものはないのに、我が子を殺しそれで料理を作るとは、その子すら愛せぬのにまたどうして主君を大切にいたしましょう」。
桓公は「では誰なら良いのか」。
対し、管仲は「隰朋(しゅうほう)が良いでしょう。彼の人物は、堅実で廉直、物欲が薄く、信義に厚いのです。堅実な人は上に立って人々を導くことができ、廉直ならば重い任務に堪え、物欲が薄ければ多くの人に命令ができ、信義に厚ければ四方の諸侯に親交を結ぶことができます。彼こそ覇道の補佐にふさわしい者です」。
この答えに桓公は「良し」と言った。
それから一年余りで管仲はこの世を去った。
しかし桓公は、隰朋を用いずに豎刁に執政させた。
豎刁が政権を握って三年目、桓公は国の南部の堂阜(どうふ)という地へ遊覧に出かけた。
すると豎刁は、易牙、公子開方及び大臣らを率いて乱を起こした。
そのため桓公は、南門の寝殿にて飲まず食わずのうちに死んでいった。
死体は三ヶ月もそのままにされ、うじが部屋の戸から這い出るほどであったという。
五覇の随一ともある身であっても、忠実な部下の意見を聞かずに自分の独り決めによって思い通りにしようとするのは、名誉を失い、世の笑いものとなる始まりである。
正論を伝えても君主を納得させるのは困難
韓非子を著した韓非は、自国の危機に際して何度も韓の君主に進言しましたが、聞き入れてもらえなかったという過去がありました。
そういった経験がこの桓公と管仲のやり取りにも反映されているように感じます。
いかに優秀な側近が居たとしても、自分の意見が固まってしまって動かない君主がいては、乱を起こされたりと国の安定は無いとゆうことを述べていることが分かります。
意見が違う部下であっても、その意思を汲み取って反映させる。
そんな柔軟な思考が大切であることを教えてくれます。
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