歴史芸術雑学

陶磁器の発展と錬金術師ベトガー ~マイセンの誕生~

歴史

【前回記事】

  

窯と陶磁器

は内部を耐火物、外側を断熱材で覆い、物質を高温に加熱できる装置の総称です。

 

窯の使用は、焼き物の高音・長時間使用の焼成を可能にしました。

(焼成:原料を加熱して硬度を増したり色調を整えたりすること)

 

焼成温度が高いと、原料となる土の中の長石石英などが融け、釉薬(ゆうやく)をかけた状態となります。

(釉薬:素焼きの段階で表面に塗る薬品/液体が染み込むのを防ぐガラス質の粉末)

  

この状態で焼き上げ、ガラス質の光沢が出て硬くなったものが陶磁器です。

  

陶器は“土物”とも呼ばれ、粘土(陶土)を原料とし比較的低温(800〜1,300℃)で焼き上げたものです。

  

磁器と比べると密度が低く割れやすいため、厚く仕上げることが多いです。

  

表面の光沢加え、土の質感が残るものも多く、磁器よりも熱伝導率が低いため、熱しにくく冷めにくいのが特徴です。

  

磁器は“石物”とも呼ばれ、主に石の粉末を原料とし高温(1,200〜1,400℃)で焼き上げたものです。

  

高音で焼くことによって生地が硬く焼き締まり、高い強度を持たせることができます。

  

陶器よりも薄く作ることができ、素地が白く表面が滑らかなため、鮮やかで細かな色付けができます。

  

  

陶磁器の発展

香港芸術館 「徳化窯の白磁」

  

磁器の一種である白磁は、中国の南北朝時代の北斉(550〜577年頃)に始まり、唐代(618〜907年)に発達し、次の宋代(960〜1279年)に最盛期を迎えます。

  

カオリン(白陶土)、石英、長石などを原料にした粘土で、1,300℃以上の高い温度で焼成し、綺麗な白色硬質磁器を作ります。

  

出来上がったものは、軽くて強度が高いうえに透明感があり、極めてなめらかで美しい器になりました。

  

中東や西洋の貿易商は、この硬質磁器に大きな商品価値を見出しました。

 

当時、飲み物を木材、銀、土器の器などで飲んでいたヨーロッパ人は、この美しい磁器を持つことに価値を見出しました。

  

中国の陶磁器は、宋、元、明、清の時代を通して重要な輸出品となり、遠くの西アジアやヨーロッパに伝わっていきます。

 

17世紀になると、硬質磁器が飲茶と共に中国からヨーロッパに向けて盛んに輸出され、一大ブームを巻き起こしました。

  

陶磁器がインド洋を経てイスラム圏に運ばれたルートは“陶磁の道”と呼ばれ、シルクロードと並んで重要な文化交流、発展の礎になりました。

  

  

錬金術師ベトガーとマイセンの誕生

アウグスト2世(1670~1733年)

磁器を作り出せねば命は無いと思え

ヨーロッパでは作り出せなかった硬質磁器。

  

各国の王侯貴族、事業家たちは躍起になってその製法を見つけようとしていました。

  

中でも、ザクセン選帝侯アウグスト強王は、磁器に強いこだわりを持っていました。

  

磁器で城内を飾ることだけでは飽き足らず、錬金術師として有名だったヨハン・フリードリヒ・ベトガーを幽閉し、磁器の製法を見つけるよう命令しました。

  

ヨハン・フリードリヒ・ベトガー(1682~1719年)

  

ベトガーは幼い頃から教育環境に恵まれ、将来は偉大な科学者になるであろうと期待された技術者でした。

  

優秀な科学者として名を馳せていた半面、その科学を使って「金を作る」と言った名目でデモンストレーションを行ない、金持ちや貴族達から研究資金を集めるという詐欺まがいの事をしていました。

  

これらのことが原因で、拠点であったプロイセンから逃亡し、錬金術師から当時流行っていた陶工に転身していました。

  

そんな中、彼が金を作れるとの噂を聞いたアウグスト強王は、ベトガーに目をつけることになったのです。

  

彼は王の監視の下、磁器の開発に取り組むことになります。

 

それまで磁器の研究に携わっていたチルンハウスが監督者として参加することになり、ベトガーへ惜しみないアドバイスを与えていきます。

  

エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス(1651~1708年)

  

チルンハウスは、スピノザニュートンライプニッツら当時の自然哲学者や物理学に長けた巨人とたちと親交があり、彼自身も数学、哲学、物理学に精通した人物でした。

 

1705年、2人はマイセン(現ドイツのマイセン地方)のアルブレヒト城にて本格的な白磁器作成の実験に取り込みます。

 

強王の領地であったザクセン地方は鉱山に恵まれており、白磁の原料であるカオリンもそれらの中で発見することができました。

 

1708年になると指導者であったチルンハウスがこの世を去りますが、翌年1709年、遂に白磁製法を発見することができました。

  

さらにその翌年1710年には、ヨーロッパ初の硬質磁器の製造窯“MEISSEN(マイセン)”が生まれました。

 

マイセンと陶工たち MEISSEN 公式サイト より

 

アウグスト強王は、白い金とも言われる白磁器の製法が他国に漏れることを恐れ、ベトガーはアルブレヒト城に軟禁され研究を続けさせられることになります。

  

ベトガーはその重圧からか酒に溺れるようになったことや、実験で薬品を吸いすぎたことなどから、マイセン完成からおよそ10年後に37歳という若さでこの世を去りました。

 

その後、マイセンは磁器顔料の発達などによって鮮やかな色彩を持つようになり、上流階級が使用していた金や銀の皿に並んで貴族の食卓を彩りました。

  

19世紀に入り、カフェ文化の普及によってコーヒーが市民の飲み物として広まった頃には、磁気はブルジョワ階級をはじめとして市民の間でも親しまれるようになっていくのです。

 

  

まとめ

・窯の発明によって陶磁器が発達した

・中国では白磁器が作られ、ヨーロッパで人気を博した

・ヨーロッパでは白磁器を作るためにベトガーとチルンハウスらが尽力した

・マイセンの誕生によって、陶磁器の文化は王族、貴族から市民と時が経つにつれて広がっていった

  

いかがでしたか、陶磁器の発展とベトガーらの研究。

  

国を追われた偽物の錬金術師が、白い金を錬成したとも言える出来事ですね。

  

「マイセンって何か聞いたことがある……」、から「マイセンの歴史を知っている」に進化したとも言えるでしょう。

   

陶磁器を見る際に、歴史的な色が付いて見えるというのも、こういう文化的な歴史を知る楽しさでもあります。

 

 

【次回記事】

  

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