の続き…。
「神は死んだ」と言い、それまで(当時)のキリスト教信仰を否定したニーチェ。
天動説からなる地球が中心の宗教観も、地動説という人間の発展させた科学によって崩壊しましたし、
神の意志とされていた天災や世の中の神秘的な現象も、人間の科学によって解明されていきました。
それでも「貧しきものこそ正義、富める者が天国へ行くことは容易ではない。」と言って自分の境遇を宗教を使って正当化する…。
彼はそのように都合よく解釈されてきたキリスト教信仰を見て、「宗教は弱者の道徳である。」と言いました。
そんな宗教観に限らず、機械の部品のように無個性に生き、自分から行動をしようとしない人間の姿にニーチェは辟易したのでしょうね。
現代での末人
今の時代ではどうでしょう?
科学技術の発展によって、内側は素粒子の世界まで、外側は宇宙にまで手を伸ばすようになりましたが、ニーチェが納得するような世の中になったでしょうか?
目標も持たずただ時間に流されるままに生き、
程々に仕事をして、境遇に不平不満を言い、
生活が苦しいと権力者(政治)のせいにし、
そのくせ自分から行動しようとしない…。
周りを見渡すとそのような人たちに気づくと思います。
いや、ニーチェに言わせればそれは人ではなく動物なのでしょう。
「ニヒリズムとらわれてはいけない、超人たれ!」…と彼の声が聞こえてくるようです。
ブラック企業、親ガチャ、有名人のスキャンダル…世の中には麻薬のように自分を正当化できるような言葉や出来事が沢山あります。
どれも末人へと導く魔のささやきです。
全く愚痴を吐かないといのも人間味がありませんが、不満もある程度に抑えつつ、その分の余力を趣味なり勉強なりに費やすのはとても有意義だと思います。
そんな人達が増えたら、彼が言う末人がはびこる世界から一歩ずつ遠ざかるのではないでしょうか。
…もしかしたらこんなことを書いている今の自分自身も末人なのかもしれません。
だとしても、これからの人生を肯定できるように考えれば…。
挫折する経験があろうともそれを乗り越え、魂が震えるような体験ができるよう行動していけば…。
同じ人生をまた繰り返しても良いなと思えるような生き方をしていけば…。
超人になり得ないとしても、それは人間らしいと言えると信じています。
永劫回帰はあり得る?
ではニーチェが言っている永劫回帰というのはあり得るのでしょうか?
同じ世界があり、同じ歴史が繰り返され、同じ人間が同じ人生を歩む。
現代科学の観点からかんがえると、どんなに時間をかけても到底ありえないことだと感じます。
この疑問に対する自分の答えは、“あり得なくもない”です。
ただ、この世界に生まれてくる人間である以上証明ができないので、ちょっと曖昧な答えになってしまいますが…。
そう考えた理由を以下に説明していきます。(ここからは先は思考実験的な内容になります。)
時間制約がないとしたら?
決めた回数までサイコロが同じ目を出し続ける確率、猿がタイピングをしてシェイクスピアと同じ文面を作る確率…。
無限の猿定理に代表されるように、膨大な回数を繰り返せば、人間が想像できるどんな確率でも起こりうるという考え方があります。
“宇宙はひとつではないor宇宙は生まれ変わる”という前提ではありますが、今の宇宙と同じようにはじまって、同じ挙動をすることもゼロではありません。
時間さえかければという話ではありますが…。
これだと時間が解決するかもしれないということで終わってしまいますが、ここから少し踏み込んでみましょう。
もし時間の壁を越える存在があるとしたら…。
例えば私たち3次元の世界で生きている人間は、階段を登ったり降りたりと立体的な挙動ができます。
漫画の世界のような2次元に生きている生物がいるとしたら、立体的な世界である3次元の存在を認識することは不可能です。
逆に私たちは、漫画を書いて2次元世界の人物を創造したり、書いた物語を印刷して寸分違わぬ2次元世界を複製することができます。
それと同じように、時間を自由に行き来できる4次元的な存在がいるとしたらどうでしょう…?
時間をコントロールできる世界ならば、無限のような確率でさえも簡単に再現できることができるのではないでしょうか?
その次元から考えたら、同じ宇宙が複製できるのは当たり前のことなのかもしれません。
そう考えると、ニーチェの永劫回帰もあり得る気がしてきませんか?
ちょっと強引だったかもしれませんが、どうせい同じ自分が同じ人生を歩むかもしれないならば、“今よりも善く生きよう”と思うきっかけになれば良いなと思います。
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