哲学

生きることは苦痛である~ショーペンハウアー④(終)~

哲学

の続き…。

 

自然法則、植物、動物など、世界のあらゆるものには意思があり、「世界は我々が認識している表象と、盲目的な生きることへの意志である。」と考えたショーペンハウアー。

 

しかし彼の哲学の中で考えた“生きる”とは、“苦痛”であるということでした。

この考え方から彼はペシミスト(悲観主義者、厭世主義者)と言われています。

 

今回はそんなペシミストのショーペンハウアーが考えた“生きること”について書いていきます。

 

 

苦痛の中で揺れる生

アルトゥール・ショーペンハウアー

「生きることは苦痛である。」

彼は“誰でも生に対しての意思があるとし、それを努力によって達成しようとする”と考えました。

 

もしその努力が達成できないとしたら、それは苦痛であると言います。

 

さらに、もし努力して何かを達成したとしても、それ以上努力する目的を失ってしまう。

  

本来生への意思があるはずの人間が、目的を失ってしまったことによって得た退屈は、まさに苦痛であると…。

 

ではこの苦痛から逃れるためにはどうすれば良いのか。

 

彼はこれについても言及し、大きく分けて芸術・同情・禁欲こそが苦痛から逃れる手段であると考えました。

 

 

芸術

ショーペンハウアーは苦痛から開放される方法として、音楽や美術などの“芸術”に触れることを考えました。

 

彼は

「芸術にはイデアが宿る」

と言いました。

 

これはプラトン哲学におけるイデアではなく、ショーペンハウアーが主張したモノ自体や意志などです。

 

【美術】

美術は表象を表し、絵画や彫刻、建造物など作者が感じ取った景色やモノ、表情、はたまた想像上の色などが表現されます。

 

モノ自体は触れることができない別の世界にあるという考えから、人間が感じ取った表象を共有する絵画はイデアを感じる手段のひとつだったのでしょう。

 

【音楽】

音楽は意思を表し、目で見ているわけでもないのに、喜びや怒り、恐怖や悲しみを感じ取ることができます。

 

彼は、これらの芸術に浸っている間はイデアを直感でき、生きることの苦痛から逃れることができると言いました。

 

 

同情

 

次にショーペンハウアーは同情(同苦)について考えます。

 

彼はこう言いました。

 

「人間は人々と同調(同情)する意志と知性を持っている。それによって人間は悲しみや苦しみを分け合うことができる。」

  

この同調することで生まれるものが“愛”です。

 

人は愛によって生の苦痛から解放されると考えたのです。

 

しかし、芸術に触れることも互いに同情することも、苦痛から逃れるのは一時的なものであることも彼は気付いていました。

 

試行錯誤の結果、彼は”禁欲”にこそ解決の糸口があると考えました。

 

 

禁欲

women meditating pastel on high mountain in sunset background

 

ショーペンハウアーが仏教やインド哲学に強い関心を持っていたことは有名です。

 

読んだことがある人は分かるかと思いますが、彼の著作には仏教に関する話が度々出てきます。

 

”生きることへの盲目的な意志は、満たしても満たされなくても苦痛である”という考えは、仏教における一切皆苦にとても似ています。

 

さらに、”欲望(による苦痛)に満ちたこの世界は、神が創ったというよりも悪魔が創ったと言った方が納得できる”というユニークな考えを持っていました。

 

これらの考えから、この世に背を向け、欲望から離脱したとき本当に苦痛から解放されると主張したのです。

 

生きるために食べることをやめる…

生きるための性的衝動を抑える…

 

など当たり前のことから一時でも離れることで、生への執着から逃れ、心の平穏を得られると考えたのですね。

 


 

以上の考え方から、彼がなぜペシミストと言われるのかが分かります。

 

ショーペンハウアーの厭世主義は、奇しくもヘーゲルの楽観主義に対するアンチテーゼのようにも見えます。

 

彼らの考えは後に、世界に名だたる人物たち影響を与えます。

 

ヘーゲル経済学者マルクス哲学者キルケゴールらに…。

 

ショーペンハウアー言語哲学者ウィトゲンシュタイン、物理学者アインシュタインらに…。

 

ヘーゲルは自分の哲学を弁証論的に正反合を行う、ショーペンハウアーのような存在を待っていたのかもしれませんね。

 

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