の続き…。
前回まではアイザック・ニュートンの幼少期から大学時代までをまとめていきました。
今回も引き続き、彼の人生や功績についてまとめていきます。
なお、前回までは混乱を避けるために、彼をアイザックと区別して呼んでいましたが、この記事からは“ニュートン”で呼称を統一します。
大学のフェローになる
1667年になるとヨーロッパ中で猛威を奮っていたペストが収まってきます。
ケンブリッジ大学に戻ったニュートンは、同大学のフェロー(研究職に従事する者が就ける役職)になります。
欠員の補充という立場でフェローとなりましたが、これによって研究費の支給をはじめ、研究の自由が与えられるなどの特権を得ることができました。
研究に没頭したニュートンはその年のうちに、流率の級数についての論文を発表しました。
この論文の中に“微分積分法”に関する記述があり、後に同時期に微積分を発見したゴットフリート・ライプニッツと法定を交えた論争を交わすことになります。
王立協会への推薦
本格的に自分の研究をはじめたニュートンは、当時不可能とされていた“鏡を組み合わせてつくる望遠鏡(グレゴリー式望遠鏡)”の作成を開始。
計算によって鏡の配置を決め、凹型の鏡やレンズなどを自作をしました。
1669年、多くの課題を乗り越えたニュートンは、世界初の反射望遠鏡の一号機を完成させたのです。
一号機に改良を施した二号機が完成する頃には、彼の功績が学会で噂になります。
この二号機を王立協会に提出したことで、彼は一部の科学者のみが在籍を許される王立協会員に推薦されるきっかけになりました。
恩師の座を譲り受ける
ニュートン式望遠鏡の完成に驚き、要人に見せて回るほど喜んだ恩師のアイザック・バロー。
1669年、ニュートンの才能を認めたバローは、自分が専任していたルーカス教授職の座を彼に譲ろうと考えました。
ニュートンは一度は断ったものの、結局バローの熱意に押される形で教授職を受け入れます。
このルーカス教授職時代に、彼の集大成である“自然哲学の数学的諸原理(後のプリンシピア)”や光の色の性質や光の粒子に関する研究である“光学”の執筆を始めました。
しかしプリンシピアも光学も、これらの論文が刊行されるのは、執筆を始めてからかなりの時間が経ってからのことになります。
特に“光学”においては、光を粒子として考えていたニュートンは、それでは説明がつかない現象に気づいており、証明ができるまで世に明かさないように隠していたそうです。
結局光の性質が解明されたのは、現代20世紀に入って量子力学という分野が確立されてからのことでした。(気になる方は“二重スリット実験”などで検索してみてください!)
錬金術と神学に目覚める
彼が30歳になった頃、あれだけ熱中していた自然学の研究を止めてしまいます。
彼が次に興味を持ったのは“聖書”や“錬金術”の研究でした。
【神学の研究】
聖書において、当時世界の終末を予言する書とされていた、ヨハネの黙示録やダニエル書を研究しました。
聖書に記されている数字や解釈を彼独自の計算式を用い、自ら終末の予言をするほどでした。
ちなみに彼が導いた滅亡のナンバーは1260です。
この数字をどう解釈するかは人それぞれですが、彼の解釈ではキリストの神が消え去るまでの時間を意味しているそうです。
【錬金術の研究】
錬金術においては、水銀と硫黄に心酔しあらゆる方法で実験をしていました。
焼き方によって様々な色になる辰砂(硫化水銀からなる物質)を用い、別の物質を作り出そうと考えていたそうです。
続く…。
今回は一旦ここまで。
自然学と数学の研究もさることながら、預言者や錬金術師としての顔も明らかになってきました。
彼の神学や哲学に関する蔵書は、自然学や数学の倍以上あったといいます。
そんなニュートンがどのように研究を続けていくのか…。
次回はいよいよプリンシピアについてまとめていきます。
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