【前回記事】
前回に続きマイセン史のご紹介!
今回は、マイセンの陶磁器に名前を残す“ヘロルト”についてのお話です。
技術流出の経緯を書いた記事の最後に登場した“ヘロルト”とはどのような人物だったのか……。
マイセンの歴史を紐解きながらお伝えしていきます。
天才絵付師ヘロルト
ベトガーの死や技術流出などの理由によって低迷期を迎えることになったマイセン。
マイセンを裏切り、技術流出のきっかけとなったシュテルツェルは、移転先のウィーン窯にてとある人物と出会います。
ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。
ヘロルトは、幼少期から画家としての才能があるとされ、当時のウィーン窯のトップであるパキエによって登用されました。
ウィーン窯では専属の絵付師として活躍し、磁器の絵付に関してはマイセン窯を超えていた言われています。
マイセン窯を裏切ったシュテルツェルは、ウィーン窯では契約通りの待遇を受けることができませんでした。
さらにウィーン窯の経営不振によって、思った通りの報酬も支払われなかったため、そこで働く意義を見失っていました。
同僚のフンガーがウィーン窯を去ることをきっかけに、シュテルツェルはマイセン窯に戻ることを決意。
しかし、一度裏切ったマイセン窯のトップは、強王アウグスト2世。
下手をすれば死も覚悟しなければならないため、簡単に戻ることはできません。
そこでシュテルツェルは若干24歳の“ヘロルト”を説得しマイセン窯に連れて行くことに。
絵付で悩んでいるマイセン窯に、絵付の技術を持ち込むことで再び迎えいれてもらおうという考えでした。
ヘロルトと柿右衛門
マイセンに戻ったシュテルツェルの思惑通り、強王はヘロルトに興味を持ち、あるお題を出します。
それは、“焼柿右衛門の模様を写しとってみよ”というものでした。
アウグスト強王は中国や日本で作られた磁器、特に有田焼柿右衛門の模様に惚れ込んでいました。
マイセン窯でもその様な絵付けをできるようにすることが強王の夢でもありました。
そのためにコレクションの中から本物の柿右衛門の皿をヘロルトに貸したというほどですから、余程の入れ込みようだったのでしょう。
ヘロルトは染付の塗料の開発から着手し、見事柿右衛門の写しを完成させます。
柿右衛門の模様を自らの窯で再現するという強王の長年の夢が叶い、ヘロルトはマイセン窯の絵付師として雇われることになりました。
この柿右衛門写しは販売目的ではありませんでしたが、マイセンの知名度もあってか、ヨーロッパ各地に窯の技術力を見せつけることになり、低迷していたマイセンの人気も再燃することになります。
それに伴い、かつての裏切り者のシュテルツェルも、無事マイセンに戻ることができました。
ヘロルト・シノワズリ
磁器の焼成技術がマニュアル化され、絵付が重要視されてきたこの頃。
ヘロルトは幾重にも配色パターンを試し、より良い絵付けができるよう研究しました。
それまで問題だった焼き上げ時の変色も防ぐことができるようになり、現代のマイセン1万色の配色パターンもこの頃の研究が基礎となっていると言われています。
それらの背景から1724年、ヘロルトが工場長になります。
彼はこの間に、マイセン初期の特徴として挙げられる“シノワズリ”を完成させます。
シノワズリは当時人気だった中国趣向の強い模様のことです。
東洋に伝わる桃源郷を描いたシノワズリは、その神秘的な世界観から人気を博し、マイセンに再び注目が集まるように。
さらにヘロルトは柿右衛門の絵付の際、銅版画に複製を写とり、複数の職人が同じ絵付をできるようにシステム化。
1764年にはマイセン専門の芸術学校を創り、高校卒業した者だけが本物のマイセンの作品に関われるようになるなど、後世の教育にも力を入れ、現代に続くマイセンの基盤を作り上げていきました。
まとめ
・シュテルツェルがヘロルトを連れてマイセン窯へ戻る
・ヘロルトが王のお眼鏡にかない、専属絵付師になる
・ヘロルトが工場長になり、マイセン窯の人気が再燃
余談ですが、ヘロルトが工場長になってからは、一部の陶工たちはかなりブラックな環境で働いていたそうです。
というのも王の絵付の注文が凄まじく、次々と成果を求められるため、従業員を帰らせる暇もないほどだったからです。
またアウグスト強王による給料の支払い停滞が多かったことも大きな不満だったそうです。
そんな中でもヘロルト自身はかなり研究熱心で、新しい塗料を手に入れるために、秘伝の絵の具のレシピを知る秘法師ケーラーを臨終を迎えるまで看病したとか……。
ケーラーは気難しいことで有名で、ヘロルトが何度頼んでもレシピを書いたノートを見せることがありませんでしたが、臨終の間際にやっとノートの在り処を知ることになったほどです。
それほどまでにヘロルトは、絵付に対してストイックだったのですね。
【次回記事】
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