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この記事では、ジャン・ジャック・ルソーが著した“エミール”から、子育てや生活に役立つような言葉を抜粋して紹介していきます。
“子どもは子どもの教育が必要である”と考えたルソーの考えを、1記事に3つずつまとめていきます。
またそれらの言葉がこの本の要約にもなるようまとめていきます!
「自然のままでは、人間はほとんど考えない。」
自然のままでは、人間はほとんど考えない。
考えることは他の全ての技術と同じように、人間が学んで身に付ける技術で、しかも学ぶのに1層骨が折れることだ。
私は男女いずれに対しても本当に区別されるべき階級は二つしか認めない。
一つは考える人の階級で、もう一つは考えない人の階級だ。
この違いが生じるものはもっぱら教育によるものと言っていい。
この二つの階級の第一のものに属する男性は、第二の階級に属する女性と縁組をすべきではない。
妻を持ちながら、自分ひとりで考えなければならなくなる時、人と人との交わりの最大の魅力がその人にはかけていることになるからだ。
「教養のある精神だけが交際を快いものにするということだ。」
生きるために働くことで、文字通り一生過ごしている人々は、彼らの労働、彼らの利害についての観念の他に何の観念も持っていないし、彼らの精神のすべては、彼らの腕の末端にあるように見える。
こういう無知は正直な性質や正しいそこを損なうものではない。
しばしばそれに役立つことさえある。
人は自分の義務をよく考えているうちに、しばしばそれと妥協することになるし、やがては実行する代わりにたわごとを並べることになる。
それにしても、やはり真実なことは教養のある精神だけが交際を快いものにするということだ。
そして、家庭にありながらも自分自身の中に閉じこもっていなければならないというのは、家庭で誰にも理解してもらえないというのは、家庭にあることを好む一家の父親にとってまことに悲しいことだ。
「何の観念も持っていない優れた価値というものに、どうして子供の心を向けさせることができよう。」
深く考える習慣を持たない者に、どうして子供が育てられよう。
子供に適当なものがどうして見分けられよう。
自分が知らない美徳に、何の観念も持っていない優れた価値というものに、どうして子供の心を向けさせることができよう。
そういうものは子供の機嫌を取るか、子供を脅かすか、横柄にするか、臆病にするかそんなことしかできないだろう。
子供を気取った猿みたいなものか、うるさい不良少年にするだけで決して健全な精神にも愛すべき子供にもしないだろう。
まとめ
人には、考える人と考えない人という二つの種類があるとルソーは言っていますね。
今の世の中で思考するというのは、子供にとっても大人にとってもとても重要なことであることは明白です。
かつては生まれた時点で身分が決まり努力ではどうにもならなかった時代がありました。
今でも何らかの結果を出すには運の要素はとても大きいと感じていますが、巡ってきた運を自分の成果とするか否かは、思考と努力によるものだと自分は考えています。
何も考えず、誰かの言われた通りに行動している人であれば、運が巡ってきたことにすら気づかず一生を終えることになるかもしれません。
そうならないために、自分がやるべきことやらなくてもいいことを区別するために思考していく必要があるのではないでしょうか。
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