トトメス3世は、父トトメス2世の死後わずか6歳にしてファラオに即位しました。
しかし人々を統べるにはまだ幼すぎた彼は、継母ハトシェプストと共にエジプトを統治することになります。
ハトシェプストは領地や資源獲得のための遠征などは控え、貿易を中心とした政策をとっていました。
貿易によって善政を敷いたハトシェプストでしたが、平和主義的だったことから国威の低下がみられました。
ハトシェプスト女王の死後、名実共に第18王朝ファラオとなったトトメス3世は逆の政策をとります。
ハトシェプストが残した財を資金源として、積極的に海外遠征を行い国威の回復を試みるのでした。
メギドの戦い
その頃北メソポタミアのミタンニ王国が国力を増大させ、エジプト領域を脅かす存在になっていました。
ミタンニ王国の謀略により反エジプト連合(カナン連合)まで組まれることになります。
紀元前1457年、エジプト王国軍とカナン連合軍は最重要交易拠点であるメギドにて衝突しました。(メギドの戦い)
トトメス3世のメギド攻略
メギドの戦いにおいてトトメス3世は、険しい山岳部からの突入を敢行しました。
戦車や弓兵での優位がある平地からの侵攻が定石と考えた軍部の意見を押し切っての判断でした。
結果この山岳部の侵攻ルートは、反エジプト連合軍が最も警戒をしていないルートだったためメギド拠点の直前まで兵の消耗も無く移動することができました。
連合軍が慌てて拠点に陣を構えるも、エジプト連合軍は目と鼻の先。
そのまま夜を迎えることになりますが、エジプト軍は夜の間に連合軍を包囲するように布陣を敷きました。
翌朝、連合軍とエジプト軍の戦いが始まります。
エジプト軍の弓兵の乗った戦車軍に連合軍は成す術なく潰走。
逃げた先のメギドに立て籠もる連合軍に対し、エジプト軍は城壁を完全に取り囲み包囲戦が始まります。
城壁の外を柵で覆われ、ネズミ一匹すら逃げることもできないほど徹底された包囲野中、補給路も断たれた連合軍は7~8ヶ月の後降伏。
エジプト軍の大勝利によってメギドの戦いは幕を閉じることになります。
エジプトのナポレオン
トトメス3世の進撃はこれだけにとどまらず、この後17回に及ぶ遠征にて領地を拡大していきます。
征服した地では王族貴族など支配層の子を人質にとり、エジプトで教育を受けさせました。
こうすることで、人質であった子が成長して故郷に戻ったとき、エジプトに対して敬意を表するようにしたのです。
その結果、征服国から貢がれる金や銀は莫大な富をもたらすことになります。
こうしてトトメス3世は上はユーフラテスから下はヌビアまで、エジプト史上最大の帝国を築き上げ、後に続くファラオたちにとっての憧れの存在ともなっていました。
この軍略と治世に長けた姿は、後の歴史家に“エジプトのナポレオン”と称される程でした。
また、エジプトに君臨する統治者をファラオといい始めたのはどうやらこの頃のようです。
大きな家を意味する“ペル・アア”という言葉がギリシャ訛りで伝えられたことから、ファラオと言う発音で知られるようになったと言われています。
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