【前回記事】
ビーグル号出航
ジョサイア2世の後押しによりビーグル号への航海を許されたダーウィン。
一度は断った船出だったため出航までに時間の猶予がありませんでしたが、可能な限りの準備をしていくことになります。
準備も鳥類や魚類、甲殻類や軟体動物など、これから出会うであろう様々な生物は、それぞれ標本のとり方や保存の方法が異なっています。
ケンブリッジ大学のヘンズローやエディンバラ大学のグラントら恩師たちもダーウィンの門出を応援して紹介状を書いてくれたり、海洋生物の標本の取り方のレクチャーをしてくれました。
協力者の中には“ブラウン運動(液体や気体中に浮遊する微粒子が、不規則に運動する現象)”を発見したロバート・ブラウンもいました。
ブラウンは、顕微鏡による観察によって花粉の仲の微粒子がランダムに動き続けることを発見した人物です。
ダーウィンは船出に際して、彼から顕微鏡観察の手ほどきを受けています。
こうした慌ただしい空気の中、1831年12月27日、若き博物学者を乗せたビーグル号はイギリス南西部のデヴォンポート港から出航していくのです。
アメリカ大陸を目指す中で……
身長が180cmを超えるダーウィンにとって、船内はひどく狭いものでした。
加えて船酔いにも弱かった彼は、ひたすら横になって三半規管が揺れに慣れるのを待ちました。
内向的だった彼には気を紛らわせるような話し相手ができませんでしたが、若き艦長のフィッツロイ(当時26歳)は、数少ない心の拠り所となりました。
フィッツロイはこのときすでに南アメリカ大陸の南端まで航海した経験があり、優れた測量や気象観測の技術を備えていました。
若いながらも艦長として船員を統制しなけばならず、船員と親しく接するわけにはいきませんでした。
一方で彼も、長旅の中で精神的な孤立を避けるべく、コミュニティケーションを欲する一面もありました。
そこでうってけだったのが、歳も近く、教養がある上で科学の話もできるダーウィンでした。
それにダーウィンが自費で参加していることや、一応聖職者見習いという点が評価されていたこともあり、上司・部下とは異なる関係がちょうど良かったのかもしれません。
船内では互いに食卓を囲むようになり、科学や生物の話で盛り上がることも多くなりました。
最初の上陸
年が明け、船はカナリア諸島のテネリフェ島に近づきました。
ダーウィンはいよいよ上陸となり、乗船当初に苦しんでいた船酔いも気にならないほど気持ちが昂っていました。
しかし、出航元のイギリスでコレラが流行していたことを理由に上陸が許可されず、2週間近くも船上での待機を命じられます。
ダーウィンもフィッツロイも、ただイカリを降ろして待機するだけの時間は苦痛でしかありません。
結局ここでは船から見える美しい山々を眺めるだけで、ビーグル号は帆を先に進めることに決めました。
その後、ダーウィンが初めて上陸したのはアフリカ大陸西部に位置するサンティアゴ島(下地図中のケープ・ヴェルド)でした。
陸に上がった彼は、現地の案内人を自費で雇い、馬をレンタルして各地の生物や地質、住民と暮らしを記録しようと考えていました。
サンティアゴ島の地質を調べてみると、火山の噴火によって積もった灰や岩石が隆起したことが推測でき、「旅を続けていけば地質学についての本を書けるかもしれない」と心を躍らせたそうです。
その記録を見たフィッツロイも、ダーウィンがいつか博学者として成果を出すだろうと調査を応援してくれました。
生命溢れるブラジル
1832年2月、ビーグル号はブラジル東部のバイア(バイヤ)に到着しました。
ダーウィンはアマゾンの熱帯雨林の中では様々な生物と出会い、言い表せない感動を覚えました。
その時の興奮は、ビーグル号航海日誌に以下のよう記されています。
「飛んでいる派手な蝶を目で追ってみると、その視線は周りの木や果物にいってしまう。
昆虫たちを見ようとしても、彼らが這い回る花々に気を取られてしまう。
目を遠くにやろうとしても景色に見とれてしまう。
嬉しさのあまりに複雑な気持ちになるが、やがて静かな喜びが湧き上がってくる。」
その後、南下した一行はリオデジャネイロに到着しました。
ここでもダーウィンは「目を引くものがあまりにも多すぎる」と嬉しい悲鳴をあげていました。
しかし、現地の生活を観察している中では、奴隷制を目の当たりにし、強い嫌悪感を抱きました。
現地の人に身振り手振りでコミュニケーションを取ろうと腕を振り上げた際、黒人男性が“怯えた表情をし、目をつむって腕をだらんとさせた”のです。
抵抗する手段をも奪われた奴隷の姿を目の当たりにした瞬間でした。
別の所では、持ってきた水が綺麗でないという理由で子どもが虐待を受けていたりと、人間の悪しき文化が次々と目に入りました。
父方の祖父エラズマス・ダーウィンと母方の祖父ジョサイア・ウェッジウッドは共に奴隷制度に強く反対しており、その意思は世代を通じても変わらぬものでした。
だた、フィッツロイの考えは違うようでした。
彼は奴隷制を支持しており、ダーウィンとの論争の末にとある領主の土地に訪れた際の出来事を話しました。
「『自分たちを不幸と思っているか、自由になりたいか』と領主が奴隷に問うと、奴隷たちは皆それを否定した」と。
ダーウィンは間髪入れずに、「主人の目の前で本当のことを言えるか」と反論しました。
これにフィッツロイは激怒し、食事を共にしなくなったそうです。
現代ではフィッツロイの話を支持する者はいないでしょうが、この思想の相違は互いの関係に大きな亀裂を生んだ出来事として知られています。
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