過敏性腸症候群(IBS)は、腹痛や下痢、便秘などの症状を繰り返す慢性的な消化器疾患であり、世界中で多くの人が悩まされています。
しかし、この疾患の原因は完全には解明されておらず、治療も症状を抑える対症療法が中心となっています。
近年、腸と脳が密接に関係している「腸・脳軸(gut-brain axis)」という概念が注目されるようになり、腸内細菌が消化機能だけでなく神経や行動にも影響を与える可能性が議論されてきました。
スウェーデンのヨーテボリ大学サールグレンスカ・アカデミーの研究チームは、新しい研究で特定の腸内細菌が、精神の安定や自律神経のバランスに関与する神経伝達物質セロトニンを作り出す能力を持つ可能性を発見しました。
研究では、これらの細菌をマウスに導入すると腸内のセロトニン量が増加し、大腸の神経細胞が増え、腸の運動機能が正常化することが確認されました。
また、IBS患者ではこれらの細菌の一部が健康な人より少ないことも観察されています。
この結果は、腸内細菌が腸の神経系や消化機能の調節に直接関与する可能性を示すものであり、将来的にはIBSなどの機能性消化管疾患の新しい治療戦略につながる可能性があります。
以下に研究の内容をまとめます。
参考研究)
・Identification of human gut bacteria that produce bioactive serotonin and promote colonic innervation(2025/10/28)
セロトニンの大半は腸で作られている

セロトニンは一般的に脳内の神経伝達物質として知られ、気分や感情、睡眠などの調節に関与する物質です。
しかし生理学的には、体内のセロトニンの90%以上は腸で生成されています。
このセロトニンは腸管神経系と呼ばれる神経ネットワークを通じて、腸の収縮運動や分泌などを調節しています。
腸管神経系は「第二の脳」とも呼ばれ、消化管の運動、血流、感覚などを制御する重要な神経系です。
この腸内神経系の発達や機能にはセロトニンが大きく関わっており、セロトニンの異常は腸の運動障害や消化器症状と関連すると考えられています。
腸内細菌とセロトニンの関係

腸には数百兆個もの微生物が生息しており、これらは総称して「腸内細菌叢(マイクロバイオータ)」と呼ばれます。
これまでの研究では、腸内細菌が宿主のセロトニン産生に影響を与える可能性が示唆されていました。
しかし、研究者たちには重要な疑問が残っていました。
それは、腸内細菌自身が生理活性を持つセロトニンを直接合成できるのかどうかという点です。
この疑問を解明するために行われたのが、今回の研究です。
セロトニンを作る腸内細菌の発見
研究チームは、腸内細菌の中からセロトニンを生成できる細菌の組み合わせを特定しました。
その細菌は以下の2種類です。
• リモシラクトバチルス・ムコサエ(Limosilactobacillus mucosae)
•リジラクトバチルス・ルミニス( Ligilactobacillus ruminis)
研究によると、これら2種類の細菌が協力して働くことでセロトニンを生成することが確認されました。
具体的には、これらの細菌は5-ヒドロキシトリプトファン(5-HTP)を脱炭酸反応によってセロトニンへ変換する能力を持っていました。
つまり、宿主の細胞だけでなく、腸内細菌そのものが神経伝達物質を作る可能性が示されたのです。
マウス実験で確認された腸の変化
研究者たちは、これらの細菌の働きを調べるためにマウス実験を行いました。
実験には、通常の腸内細菌を持たない「無菌マウス」が使用されました。このマウスは腸内セロトニンが不足している状態にあります。
このマウスに2種類の細菌を導入すると、次のような変化が観察されました。
• 腸内のセロトニン量が増加した
• 大腸の神経細胞の密度が増加した
• セロトニンに反応する神経細胞の数が増えた
• 腸の内容物が通過する時間(腸管通過時間)が正常化した
これらの結果は、腸内細菌が腸管神経系の発達や腸の運動機能に影響を与える可能性を示しています。
研究を主導したFredrik Bäckhed氏(ヨーテボリ大学分子医学教授)は、「腸内細菌が健康に影響を与える生理活性シグナル分子を作り出すという事実は、非常に興味深い。」と述べています。
IBS患者では細菌が少ない可能性

研究チームはさらに、人間の便サンプルを分析しました。
その結果、IBS患者ではリモシラクトバチルス・ムコサエの量が健康な人より少ないことが分かりました。
この細菌はセロトニン生成に必要な酵素を持つため、腸内でこの細菌が不足するとセロトニン生成が低下し、腸の運動や神経機能に影響を与える可能性があります。
Magnus Simrén(ヨーテボリ大学医療消化器学教授)は次のように説明しています。
「特定の腸内細菌が生理活性セロトニンを作り出す可能性があり、これは腸の健康に重要な役割を果たすかもしれない。そしてIBSのような機能性消化管疾患の新しい治療法につながる可能性がある。」
腸と脳の関係を理解する鍵
今回の研究は、腸内細菌が単に消化を助ける存在ではなく、神経伝達物質の生成という重要な生理機能に関与する可能性を示しています。
Fredrik Bäckhedは次のように述べています。
「腸内細菌がセロトニンのようなシグナル物質を形成できることは、腸とその微生物がどのように脳や行動に影響を与えるかを理解する鍵になる可能性がある。」
この発見は、腸内細菌が腸―脳軸を介して神経機能や行動にも影響を与える可能性を示唆しています。
ただし、この研究にはいくつかの注意点があります。
まず、主要な実験はマウスモデルで行われているため、人間でも同じ効果が完全に再現されるかどうかはまだ明らかではありません。
また、IBS患者で特定の細菌が少ないことは確認されていますが、それがIBSの原因なのか、あるいは結果として生じたものなのかはまだ確定していません。
さらに、細菌がセロトニンを作るメカニズムについても、腸内環境や他の微生物との相互作用など、まだ解明すべき点が残っています。
そのため、腸内細菌を利用した治療法の実用化には、今後の臨床研究が不可欠と考えられています。
まとめ
・リモシラクトバチルス・ムコサエとリジラクトバチルス・ルミニスという腸内細菌が協力して生理活性セロトニンを生成する可能性が示された
・これらの細菌を導入したマウスでは腸内セロトニン量が増え、大腸の神経細胞密度と腸の運動機能が改善した
・IBS患者ではセロトニン生成に関わる細菌が少ない可能性があり、将来的な治療標的になる可能性がある

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