音楽家は痛みを他の人とは異なって感じる

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楽器の演奏を学ぶことが、単なる音楽的な技能の向上にとどまらず、脳に多様な恩恵をもたらすことはよく知られています。

 

今年の4月に発表された中国科学院大学による研究によれば、演奏の習得は微細な運動技能や言語の獲得、発話、記憶といった能力を強化する効果があり、さらには脳を若々しく保つ働きもあるとされています。

 

こうした知見はすでに広く認められていますが、長年にわたり音楽家と関わり、彼らが数千回にも及ぶ反復練習を続ける姿を見てきた研究者たちは、新たな問いを抱きました。

 

すなわち、音楽的な訓練が脳の働きを大きく変えるのであれば、それは他の感覚にも影響を与えるのではないか、という疑問です。

 

今回の研究はそんな音楽に影響された脳と、感覚の一つである「痛みの感じ方」についてです。

 

参考記事)

Musicians Don’t Feel Pain Like The Rest of Us, Surprising Study Reveals(2025/09/26)

 

参考研究)

Prior use-dependent plasticity triggers different individual corticomotor responses during persistent musculoskeletal pain(2025/07/30)

 

 

痛みと脳の反応

 

科学者たちはすでに、痛みが人間の身体と脳にさまざまな反応を引き起こすことを明らかにしています。

 

痛みは私たちの注意や思考、動作や行動を変化させます。

 

たとえば、熱い鍋に触れたときに手を素早く引っ込める反応は、痛みによって危険を回避する典型的な例です。

 

さらに、痛みは脳の活動を変化させることも知られています。

 

通常、痛みは運動野の活動を抑制します。運動野は筋肉の制御を担う領域であり、この活動低下は負傷した部位を過度に使わないよう抑制する役割を果たしています。

 

つまり、痛みは短期的には保護信号として働き、さらなる損傷を防ぐのです。

 

しかし、痛みが長期化すると事情は異なります。脳が「動かすな」という信号を長期間出し続けることで機能が乱れ、かえって症状を悪化させる可能性があるのです。

 

例えば足首を捻挫して長く使用しないままでいると、可動性が低下し、痛み制御に関わる脳の活動も阻害され、結果として痛みが慢性化する場合があります。

  

研究ではまた、持続的な痛みは脳の「身体地図(ボディマップ)」を縮小させることが確認されています。

  

ボディマップとは、脳が筋肉にどのように指令を出すかを管理している領域ですが、その縮小は痛みの悪化と結びついています。

  

ただし、全員が同じように影響を受けるわけではなく、痛みに対する耐性は人によって異なります。

 

その理由は完全には解明されていません。

 

 

研究の概要 〜音楽家と痛み〜

 

今回の研究では、音楽的訓練によって形成される脳の変化が、痛みの知覚や耐性にどのような影響を及ぼすかを検証しました。

 

研究チームは、音楽家と非音楽家の両方を対象に、数日間にわたって手に痛みを誘発し、その反応を比較しました。

 

安全に筋肉痛を模倣するため、研究者たちは「神経成長因子(nerve growth factor)」というタンパク質を用いました。

 

本来この物質は神経を健康に保つ役割を果たしますが、手の筋肉に注射すると数日間にわたって痛みを引き起こします。

 

ただし、この痛みは一時的で無害であり、組織を損傷することはありません。

 

さらに、経頭蓋磁気刺激(TMS)という技術を用いて脳の活動を測定しました。

 

TMSは微小な磁気パルスを脳に送ることで、その反応を記録するものです。

 

この方法により、脳が手の動きをどのように制御しているかを「地図」として描き出しました。

 

研究では、注射前、注射から2日後、そして8日後にそれぞれ測定を行い、痛みによる脳の変化を観察しました。

 

 

音楽家とそうでない人の脳の違い

比較の結果、音楽家とそうでない人の脳には顕著な違いが見られました。

  

まず、痛みを誘発する前から、音楽家の脳にはより精密な手の地図が形成されていたのです。

  

さらに、練習時間が長いほどその地図は精緻化されていました。

  

痛みを誘発した後も興味深い違いが確認されました。

 

音楽家は音楽家でない人と比べて痛みを弱く感じたと報告しました。

 

この研究は40名という比較的小規模な被験者を対象としたものであるため、結果の一般化には慎重さが必要です。

 

しかし、それでも明確に示されたのは、音楽家の脳が痛みに対して異なる反応を示すという事実です。

 

長期にわたる訓練が、痛みの感受性を低減させ、脳の運動領域が痛みによる悪影響を受けにくくしている可能性が高いのです。

  

これは音楽が慢性疼痛を治療する「特効薬」であるという意味ではありません。

 

あくまで、長期的な経験や訓練が痛みの感じ方そのものを形作る可能性を示したにすぎないのです。

 

それでも、この知見は、なぜ一部の人々が痛みに強く、また他の人々が痛みに弱いのかを理解する手がかりになると期待されています。

 

現在、研究チームはさらに踏み込んだ調査を進めており、音楽的訓練が慢性的な痛みの際に注意力や認知に与える悪影響をも防ぐのかどうかを探究しています。

 

最終的には、脳を「再訓練」する新しい療法の開発につながる可能性もあります。

 

本研究を主導したデンマークのオーフス大学の助教授であるAnna M. Zamorano氏は、次のように述べています。

 

音楽家として毎日学び、練習することは、単に技能を高めるだけでなく、私の脳を実際に作り替え、世界の感じ方さえ変える。痛みのように根源的なものに対しても、脳の仕組みは変わりうる

  

  

まとめ

・音楽家は長期的な訓練によって、脳の「身体地図」が精緻化され、痛みに対して強い耐性を示すことが明らかになった

・音楽家の脳は、非音楽家に比べて痛みによる運動野の縮小が見られず、痛みの感覚も弱いという結果が得られた

・研究は小規模であり、慢性疼痛の治療法として音楽を直接用いることはまだできないが、新しい療法開発の手がかりとなる可能性がある

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