若年層の消化管がんの増加が騒がれる昨今、特に大腸がんや直腸がんは世界的に患者数が多く再発のリスクも高いため、予防の関するメカニズムや治療薬の研究は大きな課題です。
スウェーデンのカロリンスカ大学およびカロリンスカ研究所による研究から、現在でも広く使用されている鎮痛薬が、がん再発の予防に役立つ可能性があるとして注目されています。
その薬とは、誰もが知る「アスピリン」です。
研究では、低用量のアスピリンを毎日服用した場合、大腸がんや直腸がんの再発リスクを有意に減少させられることが示されました。
本記事は、アスピリンの使用を推奨するものではありません。
アスピリンの主成分(アセチルサリチル酸)による胃粘膜保護作用の低下や喘息(アスピリン喘息)などが確認されているため、程度によっては重篤な副作用をもたらす危険性があることを前提として話をまとめます。
参考記事)
・A Common Medicine May Stop Colorectal Cancer From Returning(2025/09/24)
参考研究)
・Low-Dose Aspirin for PI3K-Altered Localized Colorectal Cancer(2025/09/17)
アスピリンの歴史

アスピリンの歴史はとても古く、紀元前1500年頃、古代エジプトのエーベルス・パピルスには、柳の木皮を強壮剤や鎮痛剤として用いる処方が記録されていました。
さらに紀元前460~377年のヒポクラテスや紀元前372~287年のテオフラストスは、柳の樹皮で痛みや熱を和らげる効能を報告しています 。
1763年、イングランドの牧師エドワード・ストーンが50人の発熱患者に柳の木皮抽出物を投与し、発熱や疼痛の緩和効果を英国王立協会に報告しました
1829年、イタリアの化学者ラファエル・ピリアの手法をもとに、フランスの薬剤師ピエール=ジョセフ・ラファエル・プリエルが柳皮抽出物から結晶性の「サリシン」を単離。
これと同時に純粋なサリチル酸を得る技術の基礎が築かれました
1897年、ドイツのバイエル研究所でフェリックス・ホフマン博士が、サリチル酸のヒドロキシ基をアセチル化して安定なアセチルサリチル酸を純粋な形で合成することに世界で初めて成功しました。
1889年にドイツで「アスピリン(Aspirin®)」として商標が登録されて以降、用量の標準化も進み、一般用鎮痛・解熱剤として世界中に普及しました。
アスピリンと大腸がん再発リスクの関係

アスピリンの歴史について知ったところで、研究の内容に入ります。
研究チームは、ステージ1から3の大腸がんまたは直腸がんを持つ患者626人を対象に臨床試験を行いました。
対象となった患者の腫瘍には、特定の遺伝子変異(PIK3シグナル経路に関連する変異)が認められており、この遺伝子型を持つがんはアスピリンによって制御できる可能性が過去の基礎研究で指摘されていました。
しかし、これまで実際の臨床試験で検証されたことはなく、今回が初めての試みでした。
試験では、患者を2つのグループに分け、一方には低用量アスピリンを毎日投与し、もう一方にはプラセボ(偽薬)を投与しました。
その結果、アスピリンを服用した患者は、3年間で最大55%も再発リスクが低下することが確認されました。
具体的には、アスピリン群では7.7%が再発したのに対し、プラセボ群では14.1〜16.8%の患者で再発が見られました。
研究を主導した外科医のAnna Martling氏は、「アスピリンは世界中で容易に入手できる薬であり、現代の高価ながん治療薬と比べても非常に安価である。この結果はがん治療において極めてポジティブ」と述べています。
アスピリンががんを抑制するメカニズム

研究チームは、アスピリンが大腸がんの再発を抑制する可能性について、以下のような複数の作用機序を推測しています。
・炎症を抑える効果
がんの進展には慢性的な炎症が関与すると考えられており、アスピリンの抗炎症作用が腫瘍の増殖抑制に寄与する可能性がある
・腫瘍の成長を制限する作用
アスピリンは腫瘍細胞の成長シグナルを妨げる働きを持ち、腫瘍の拡大を抑えると考えられている
・血小板機能の抑制
血小板はがん細胞が免疫から逃れる「盾」として利用されることがあるが、アスピリンはこの血小板の機能を弱め、がん細胞の転移を防いでいる可能性がある
さらに、PIK3シグナル経路の阻害も考えられており、この経路が腫瘍の増殖を助けている可能性があると指摘されています。
ただし、この作用についてはまだ分子レベルの理解が不十分であり、今後の研究によって詳しく解明される必要があります。
精密医療としての新しい可能性
今回の臨床試験の結果は、アスピリンが遺伝子情報に基づいた個別化治療(プレシジョン・メディシン)として新たな役割を果たせる可能性を示唆しています。
Martling氏は「アスピリンはこれまでとは全く異なる文脈で精密医療の一部として検討されている。これは遺伝子情報を利用して治療を個別化し、同時に資源や患者の負担を減らす明確な事例である」とコメントしています。
世界では毎年およそ200万人が大腸がんと診断され、そのうち30〜40%が再発を経験するとされています。
したがって、アスピリンのような安価かつ広く利用可能な薬が再発リスクを下げることができれば、多くの命を救う可能性があります。
アスピリン使用の利点とリスク

アスピリンはすでに心筋梗塞や脳卒中の再発予防薬として広く使われており、低用量の服用によって心血管疾患のリスクを低減できることが知られています。
一方、冒頭でも述べたように、消化管出血や内出血のリスクが増加することも数多くの研究で報告されています。
そのため、アスピリンを大腸がん再発予防に応用する際には、利点とリスクのバランスを慎重に評価する必要があります。
今回の研究は、アスピリンが有効に作用する可能性がある患者層を、遺伝子変異という客観的な指標で特定できる点に大きな意義があります。
すでにがんの診断過程では重要な遺伝子変異の有無が調べられているため、臨床現場において導入しやすいと考えられます。
今後の展望と課題
本研究はニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに発表されており、その意義は国際的に注目されています。
しかし、研究チーム自身も述べているように、分子メカニズムの全貌はまだ解明されていません。
また、対象となったのは特定の遺伝子変異を持つ患者に限られており、すべての大腸がん患者に当てはまる結果ではない点も留意すべきです。
今後は、さらに大規模な臨床試験を通じて、アスピリンの有効性と安全性を検証し、どのような患者群に最も効果が期待できるのかを明らかにすることが重要になります。
まとめ
・低用量アスピリンは、大腸がん・直腸がんの再発リスクを最大55%低下させる可能性が示された。
・アスピリンの作用は、炎症抑制・腫瘍成長制限・血小板機能阻害・PIK3経路阻害など複数のメカニズムが関与していると考えられる
・ 安価で入手しやすい薬を遺伝子情報に基づいた精密医療として応用できる可能性があり、今後の研究でより明確になることが期待される。


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