フランツ侯爵と英国
かつて旧東ドイツだった場所にヴェルリッツという町があります。
ここにはヴェルリッツ城が建てられており、イギリスから遠く離れているにもかかわらず、英国の庭園、英国の城そして英国(ウェッジウッド製)の陶磁器が収められているという非常に稀な城でした。
城主はフリードリヒ・フランツ侯爵といい、女帝エカチェリーナ二世の甥にあたる人物でした。
エカチェリーナ二世は愛陶家で有名でしたが、フランツ侯爵もまたウェッジウッドの熱心な顧客でした。
とはいえ女帝と侯爵との間には深い繋がりはなく、2人がウェッジウッドの製品を好んで所持していたのは偶然だったようです。
18世紀後半、ジョサイアはベントレーと共同で口コミによる需要増加を画策していました。
ウェッジウッドのファンである貴族や王室の関係者に推薦状を書いてもらい、ヨーロッパ大陸の王侯貴族に向けてアピールしていたのです。
その際、サンプルとして工場の製品を送るというマーケティングも行っており、ウェッジウッドの品質の高さを知って貰おうと努力していました。
二人にとって戦略が成功するかは未知数でしたが、そんな杞憂をよそに欧州諸侯から次々と注文が舞い込むようになってきました。
フランツ侯爵のもとにもこの推薦状が届き、ウェッジウッドの虜になっていきます。
このときフランツ侯爵は城の建設に取り組んでいました。
彼はいち早く産業革命を遂げた英国を視察し、政治経済、そして啓蒙思想など英国のさまざまな文化参考にしています。
貴族お抱えの建築家であるフリードリヒ・エルトマンスドルフも視察に同行しており、侯爵の庭や城の設計に英国風のデザインを取り入れていきます。
またこのとき、侯爵は身分を隠して“ジャン・ジャック・ルソー”に会い、教育や哲学などを語り合っています。
彼の思想に傾倒した侯爵は、庭園の庭に「ルソーの島」と名付けられた池を作っています。
ファーター・フランツ
そんな啓蒙主義的な側面を持ったフランツ侯爵にはこんなエピソードが存在します。
ある時エルベ河が氾濫し、ヴェルリッツが飢饉に見舞われました。
そうとは知らずウェッジウッドから新しい紹介がありました。
侯爵は、「民が危機にあるこの時に、自分が贅沢をすることはできない」と言い、断りの手紙を書きました。
また彼は、自分のプライベートな部屋以外、城を解放して地元の人々が使用できるようにしました。
庭園や建物には自由に入ることができ、住民達は腹を満たすことはできねど、侯爵の心遣いに感謝したそうです。
この伝統は今でも受け継がれ、庭園には堀も入り口もなく、無料で誰もが入ることができるようになっています。
そんな侯爵は「ファーター(父)・フランツ」と呼ばれ、親しみを持って語り継がれています。
存在しないことにされていた「ウェッジウッド社」
実は侯爵の城があるヴェルリッツですが、最近までウェッジウッド社が存在しないことになっていました。
というのも、ヴェルリッツは鉄のカーテンによって西側諸国と分断されていた過去がありました。
ウェッジウッドの製品を大切にしていたものの、情報が限られた時代には「もう存在しない会社なんだ」と思われていたのです。
1989年のある日、地元の文化基金職員が観光客にフランツ侯爵の城を案内していまさた。
このときもウェッジウッドの壺の前で「現在、この素晴らしい会社が存在しないのは残念です……」と説明したところ、あるご婦人が「現在でもその会社は残っていますよ」と指摘したそうです。
1990年に東西ドイツが統一され、一息ついた後にヴェルリッツの代表らがウェッジウッドの本社を訪れたことでその存在が明らかになり、双方ともに驚いたというのだから面白いです。
1995年には互いの意向によってフランツ侯爵のヴェルリッツ城にてジョサイア・ウェッジウッドの没後200年を記念する展覧会が開かれることになりました。
展覧会ではウェッジウッドの製品だけでなく、イルメナウの陶磁器工場で作られたジャスパーの模倣品まで展示されており、普通では見られない文化の歴史を楽しめるものだったそうです。
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