この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝」から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。
本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。
記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。
今回のテーマは「伊藤博文」です。
明治天皇から叱られるほどの遊び人
伊藤博文といえば、日本初の内閣総理大臣として教科書に載るほど有名な人物です。
岩倉使節団の一員として欧米を視察し、憲法制定にも力を尽くした立憲政治の父です。
しかしその人柄が災いして、評価は決して高いとは言えません。
彼には女性スキャンダルが付き物で、軽薄な人間という印象がつきまとっているうえ、朝鮮を侵略して保護国とした際のリーダーだったことから、日本が大戦へと突き進んだ原因の一つとされています。
また、韓国の独立運動家、安重根に暗殺されたという悲運の最期を遂げた宰相でもあります。
そんな伊藤博文は、どんな人だったのか……。
以下にまとめていきます。
女好きだが努力を欠かさない男
伊藤博文と言えば、プライベートの面では女遊びが絶えなかったことでも有名です。
彼いわく、「自分は欲が少なく、貯蓄することを知らないし、豪邸に進もうとも思わない。ただ、公務の余暇に芸者を相手するのが何よりの楽しみ」だそうで、正妻の梅子がいながらもプロ(芸者)とのお遊びに興じていました。
今のご時世ではバッシング間違いなしですが、芸者の間では「伊藤博文と寝た」という経歴が、出世に繋がっていたそうです。
明治天皇から「ちょっとは女遊びをひかえなさい」と苦言を呈されるほどの遊び人だったようで、当時の雑誌も伊藤のスキャンダルには事欠きませんでした。
そんな伊藤ですが、合計で4回も内閣総理大臣になるほどの人望と能力を備えてる人物でした。
彼の師匠である吉田松陰は、いち早く伊藤博文という男の将来性に気づいた人物です。
伊藤博文と吉田松陰
伊藤は周防国(現在の山口県)の、貧しい農民の生まれでした。
父が足軽になったことで武士にはなれたものの、身分は低いものでした。
伊藤が17歳になったとき、松下村塾(吉田松陰が開いた私塾)の門を叩き学問に打ち込みます。
同窓の吉田稔麿(よしだとしまろ)から読み終わった書物をゆずってもらっては、空いた時間を見つけては読み漁っていました。
師匠の松蔭も、彼の勉強熱心な姿が印象的だったようで、伊藤についてこのように述べています。
「才能は劣っており、学問も未熟だが、実直で質素な性格である。私はとてもこの弟子を愛している」
決して出来が良い生徒ではなかったようですが、努力を惜しまず勉学に励んでいたようです。
幕末から明治にかけて、外国排斥を目的とする攘夷思想に目ざめた伊藤は、“長州藩の希望の星”として注目されていきます。
松陰からも「伊藤は人をまとめる才能がある」とまで評価されるようになり、この頃からカリスマ性を見せつけていたようです。
しかし、伊藤が江戸に滞在しているときに、松陰は「安政の大獄」によって幕府によって処刑されてしまいます。
理由は、老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を自白したためです。(このとき井伊直弼は大老の位)
伊藤は、先輩の桂小五郎(後の木戸孝允)たちと松陰の遺体の受け取りへ向かい、斬首された恩師の無残な姿を目の当たりにします。
すると伊藤は、「先生のお姿だけでも元に戻さないと・・・・・・」と血まみれになった松蔭の首を水でキレイに洗い、胴体とつなげようとしました。
役人に制止されても伊藤は意に介さず、木戸がまとっていた着物で遺体をくるむと、伊藤は自分の帯を使って、松陰の胴体と首を結んで埋葬したといいます。
もともと伊藤は明るくお調子者な性格と言われていましたが、そんな彼の怒りと悲しみに満ちた行動は、他の塾生たちにも胸にも伝わったことでしょう。
この後伊藤は、攘夷思想を改めて「欧米諸国に学ばなければならない」と決意します。
21歳になる頃にイギリスへ留学し、実際の外国を感じながら見識を深めていくことになります。
この経験は岩倉使節団による東欧諸国への巡回に大きく役立ち、条約改正や議会制度の刷新、憲法制定など明治新政府で大活躍することになります。
外交によって戦争に勝つ
そこから時は経ち、政府の重鎮として内閣総理大臣を務めるまでになった伊藤は、日清戦争(1894~1895年)では自ら全権委任として下関条約を締結、戦争を終結へと向かわせました。
この戦争に勝利したことで、日本全体がロシアとの戦争へと突き進んでいきます。
しかし伊藤は、安易にロシアを刺激することは避けようしていました。
当時の世論とは逆の考えだった伊藤は、“恐露病”とバカにされるほどでした。
結局、この加熱した戦争風を変えることは出来ず、1904年に日露戦争が始まります。
これに対し、伊藤はすぐに手を打ちました。
貴族院議員の金子堅太郎を電話で呼び、「今すぐアメリカに行ってくれ。この日露戦争が1年続くか、2年続くかまた3年続くか分からないが、もし勝敗が決しなければ、両国に入って調停する国がなければならぬ」と命じたのです。
伊藤はこの時、日本とロシアの軍事力では大国であるロシアに分があると読んでいたのです。
いざ日露戦争がはじまると、日本は連戦連勝を飾り、勝利ムードが漂っていました。
しかし、強大な兵力を温存していたロシアに対して、戦争の継続が困難な状況に陥ります。
そんなときに、伊藤の布石が活きることになりました。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によってポーツマス条約が締結され、日本の勝利で終結することができたのです。
もし、仲介の交渉が長引き、早期に戦争を終わらせることができなかったなら、日本は敗北していたと考えられています。
伊藤博文暗殺事件
日清・日露と2つ戦争を終結に向かわせた伊藤でしたが、1909年10月24日の午前9時30 分、中国のハルピン駅で暗殺されてしまいます。(享年68歳)
伊藤を銃で撃ったのは韓国の独立運動家、安重根です。
暗殺された理由としては、伊藤が韓国統監として日韓併合(大日本帝国が大韓帝国を併合して統治下に置いたこと)を推し進めたと、考えられていたようです。
実のところ、伊藤は韓国統監に就任することで、支配を目論んでいた訳ではなく、軍の強化をもくろむ山縣有朋に対抗しようとしていました。
自分が韓国に進駐する軍隊をコントロールすることで、軍部の暴走をなんとか制止しようとしていたのです。
そんな伊藤を暗殺した安重根の行為は、 結果的に日本軍の膨張と統治下での抑圧へとつながっていくことになります。
そんな明治維新の時代を生きた宰相が伊藤博文を紹介させてもらいました。
やはり、西郷隆盛や大久保利通らと比べると華やかさには欠けるところがありますが、政党内閣の礎を築いたという点では誰よりも大きな功績を残したと言えます。
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