この記事は、著真山知幸氏の「実はすごかった!? 嫌われ偉人伝」から学んだ内容と、自分の知識などをまとめていく記事です。
本書では、教科書で習ったあの偉人の意外な素顔について記されており、内容を読むと彼らの印象がガラッと変わること間違いなしです。
記事ではそんな偉人の横顔について、本書を要約する形でまとめていきます。
今回のテーマは「井伊直弼」です。
井伊直弼の印象
井伊直弼といえば、ペリーら黒船来航に際して日米修好通商条約の締結を推し進めた人物ということで有名です。
しかしこの条約締結、天皇の許可を得ずに強行したということで朝廷軽視の印象を植え付け、幕府側と朝廷側の確執を生むきっかけにもなってしまいます。
直弼はその後、幕府に批判的な人たちを弾圧し、100人以上を処罰する“安政の大獄”を行ないます。
そんな井伊の横暴によって幕府の政治は混乱し、反発する者も増えていく中、最期は“桜田門外の変”で暗殺されるという最後をたどることになります。
というのが一般的な解釈です。
しかし、史実は少し異なります。
井伊直弼の実態は、朝廷の顔を立て、他国との条約をもうまく結ぼうと考えるも、誤解が重なり弾圧を行ってしまったというものです。
それでは彼の半生から見ていきたいと思います。
養子になれなかった井伊直弼
直弼は、近江国彦根藩の第14代藩主・井伊直中の十四男として、彦根城に生まれました。
井伊家では、長男以外に生まれたものは、他の大名家もしくは家臣の養子になるのがしきたりでした。
もしそうならなかった場合、狭い家とわずかな生活費で暮らさなくてはならない運命にあります。
ある日直弼は、江戸にいる兄から「養子にしてくれそうな大名を紹介する」という連絡がありました。
「これで将来も安泰だ!」と思った直弼は、弟とともに江戸へと向かいます。
しかし、養子先が決まったのは弟だけという結果に。
直弼は1年の間江戸に滞在しましたが、とうとう誰にも養子にしてもらえませんでした。
がっかりしながら彦根に帰ると、自分が住むせまい屋敷のことを「埋木舎」と名づけて、こんな歌を詠んだ。
「花も咲かない埋もれた木のように、こもって自分のなすべきことをすればよいのだ」
たとえ住むのにも苦労する学舎でも、木がコツコツ成長するように学問にはげみ、人格をみがいていこうと決心したのです。
この決意のもと直弼は、 途中の江戸にいた期間をのぞいて、17歳から30歳までのおよそ15年間を、この埋木舎で修行をしていました。
埋木舎にて直弼は禅や剣技の修行にはげみ、国学や和歌を研究。
さらに茶室をしつらえて、茶人としても一流の腕前を持つようになりました。
そういった日々を積み重ね32歳になった頃。
直弼は突然、江戸へ来るように命じられました。
15代藩主となった兄(直亮)の養子になることが決定したのです。
この突然の報せに直弼は、友人への手紙にこんな思いを記しています。
「思いもしなかったことで、身に余る幸せだが、自分は愚か者なので大いに心配している」
江戸という巨大な都で、自分の活躍の場があるかどうかを案じていたようです。
“大老”井伊直弼
心配性の直弼ですが、彼の活躍の場はすぐに現れます。
3年後に直亮が病死すると、直弼は35歳で第16代彦根藩主に就任することになるのです。
すぐさま藩の人事を刷新して、藩内の政治改革を行います。
すると直弼の手腕が注目されはじめ、その噂は江戸幕府にまで及びました。
そんな中、浦賀に黒船が来航します。
直弼はこのペリー来航をきっかけにして、溜詰(今でいう副大臣)という立場から幕政に参加。
そして将軍の徳川家定に見出されると、直弼はなんと「大老」の地位にまでのぼりつめることになりました。
当初、直弼には大老のような重要な役目は務まらないと思われていたらしく、周囲からは「大老にふさわしくない」などと悪口も言われていました。
しかし埋木舎で長きに渡る孤独な修行を経た直弼にそんな前評判は響きません。
むしろこの大役を務めるための意欲にあふれていました。
大老に就任してすぐの大仕事は、将軍・家定の跡継ぎ問題でした。
家定の病気が重くなると、次の将軍は誰にするのか、という問題で幕府がどよめきます。
徳川慶喜を推す声もあるなか直弼は血筋を重視し、徳川家茂が第14代将軍に就任するようまとめ上げ、騒乱の弾みとなるであろう徳川家の空位をさけることに尽力しました。
そして、次なる大きな仕事が、アメリカとの条約調印でした。
冒頭でも述べましたが、井伊直弼が「孝明天皇の反対にもかかわらず、勅許(天皇の許可)を得ることなく強引に条約調印を進めた」というのは大きな誤解です。
むしろ彼は、条約調印にはかなり慎重で、天皇の立場を重んじようとしていました。
当初、外国人がとにかく嫌いだった孝明天皇が条約に強い拒否反応を示していました。
しかし幕府からすれば条約の締結は、再三の話し合いの末に様々な大名との協議の末に出した結論で、「今さら朝廷の許可などいらない」という声が大半でした。
しかし井伊直弼は、「調印は、天皇からの許可があってからだ」と主張しました。
とはいえすでに事は調印に向けて進んでおり、大老という立場から皆の意見もまとめなければなりません。
直弼は、自分の慎重論を推し通すことはなく、交渉を担当している者たちにこう手紙を送っています。
「天皇から許可が得られるまでは、できるだけ調印を延期するようにハリスと交渉してほしい」
あくまで孝明天皇の許可を待とうという姿勢を崩さなかったのです。
しかし現場はそうも言っていられません。
交渉中の特使から、「交渉が行きづまった場合は調印してもよいですか」と返されると直弼は、「その際は仕方がないが、なるべく延期するよう努めよ」と記しています。
そんな慎重な直弼だったが、結局、天皇から許可を得ることなく、日米通商修好条約が締結されることになったのです。
ここまで見ても、歴史で習ったような“井伊直弼が勝手に条約に調印した”という印象からは大きくかけ離れるものです。
一方、反幕府側からすると、幕府のトップだった幕府直弼の意思と判断されてしまうのも状況上無理はないというのも事実ですね。
誤解とすれ違い
蒸気機関を備えた最新鋭の異国船は日本を震撼させましたが、幕府による条約締結でひと段落することに。
……とはいきませんでした。
条約締結に最後まで首を縦に降らなかった孝明天皇が怒りを示していたのです。
孝明天皇は、自分の許可なしに条約を結んだことに対する幕府への不信感から、水戸藩に「幕府を改革せよ」という命令を下しています。
これが「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」といわれる天皇の命令であり、この勅令を諸藩に回すか、幕府へすべきかという大きな問題となりました。
当時の江戸時代は、幕府の管理下で各藩が領地を治める「幕藩体制」が敷かれていました。
そのため、孝明天皇が藩に対して「幕府の改革をせよ」と命令するのは、部下に対して「あの上司をなんとかせよ」と命令するものです。
側から見てもおかしいと感じるこの勅令ですが、直弼からみるとさらに異質なものに見え、幕府を転覆させるために各藩の決起を促す叛逆の令と捉えました。
「水戸藩の策略に違いない」と思い込んでしまった直弼は、 これをきっかけに、「天皇の命令にかかわった者を徹底的に処罰すべし」と弾圧を始め、かの有名な「安政の大獄」にふみ切ることとなってしまうのです。
この弾圧によって恨みを買った直弼は1860年3月24日、桜田門外ノ変にて元水戸藩士らに暗殺されることになります。
弾圧の末に暗殺という不運の大老でしたが、そのきっかけは孝明天皇の暴走にあったことも忘れてはなりません。
また、その行為によって悪者の印象が強い直弼ですが、近年その姿があらわになるに連れて「西洋の産業革命に一歩遅れていた日本を近代化に導いたキレ者」という声もあがっています。
勘違いから起こった弾圧という闇もありますが、開国による文明開花のきっかけを作った人物と言えるでしょう。
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