歴史経済

【国富論(外伝)】アダム・スミスから見たコロンブス

歴史

  

アダム・スミス(1723~1790年)

 

      

この記事ではアダム・スミス国富論を読み解いていきます。

 

……と前回まで進めてきましたが、今回は少し休憩がてら横道にそれてみます。

 

ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路発見、アメリゴ・ヴェスプッチによるアメリカ大陸の発見、マゼランによる世界一周。

 

 

第四編の中で大航海時代について触れている節があります。

 

インドへの道のり発見、アメリカへの入植を果たした16世紀以降、商人たちはヨーロッパに対して莫大な利益を生み出していました。

 

それらのきっかけとなったが、ご存じコロンブスです。

 

現在のヨーロッパから西向きでインドに到達しようと試みた探検家です。

 

今回は、アダム・スミスが国富論で述べたコロンブスに対する見解が面白かったので紹介します。

 

 

コロンブス

クリストファー・コロンブス(1451頃~1506年)

〜引用 第四編 七章 一節 より~

 

14、5世紀の間ヴェニス人が東インドの財貨をヨーロッパの他の諸国民に分配し、非常に有利な商業を営んでいた。

 

ヴェニス人の大利潤は、ポルトガル人の貪欲心をそそった。

 

彼らは15世紀を通じてムーア人がサハラ砂漠を横断して象牙や砂金を自分たちにもたらしてくれるその国々への海路を発見しようと努力し、ついに希望方を発見した。

 

これより数年前、ポルトガル人のこの計画の成功が疑わしく思われ、それに対するヨーロッパの期待がまだどっち付かずの状態に合った時、ジェノアの一人の水先案内人が西回りで東インドに航行しようといっそう大胆な計画を立てた。

 

当時のヨーロッパでは、東インドの国々の位置は極めて不完全にしか知られていなかった。

 

そこへ行ったことのあるヨーロッパの少数の旅行者たちはその距離を非常に大げさに言った。

 

というのは、おそらく単純さと無知とのために実際には非常な遠距離であっても、それを測ることもできない人々にとっては、それがほとんど無限大のものに思われた為かもしれないし、あるいはまたヨーロッパから甚だしく遠い所地域を訪ねた、これらの旅行家が、恐らくは自分たちの冒険の怪奇さを多少とも好調しようとしたためかもしれない。

 

コロムバスは、極めて正当にも、東からの道が遠ければ遠いほど西からの道は近いはずだという結論に達した。

 

そこで、彼は最も近くて確実なものとして、この道を取ることを提案し、また幸運にもキャスティールのイザベラ(スペイン女王=イザベル一世)に自分の計画が見込の多いものであることを納得させた。

 

彼は、ヴァスコ・ダ・ガマの遠征隊がポルトガルを出発する5年近くも前の1492年の8月に、バーロスの港を出港し、2,3ヶ月の航海の後、各諸島を発見した。

 

ところがコロムバスがこの航海やその後の諸航海で発見した諸地方は、彼が探し求めて行った地方とは似ても似つかぬものであった。

 

彼はシナやインドスタンの富、耕作および濃密な人口を発見するどころか、サント・ドミンゴや、自分が訪れた新世界の他のすべてのところで、森に覆い尽くされて、未耕作で、裸で惨めな野蛮人の若干の種族が住んでいるに過ぎない地方しか発見しなかった。

 

けれども、彼はこれらの地方がシナまたは東インドを訪ねた最初のヨーロッパ人、否少なくともこれらの地方についでの記録を後世に残した最初のヨーロッパ人であるマルコ・ポーロによって記述されている国々の中にあるものと同じではないということをなかなか信じようとはしなかった。

 

サント・ドミンゴにあるシバオ(Cibao)という山の名とマルコ・ポーロが書いているシパンゴ(Cipango)というそれとわずかに似ていることが分かると、明白な反証があるにもかかわらず、もうそれだけで自分の大好きな先入見に戻ってくるという有様であった。

 

ファーディナンドとイザベラに宛てた手紙の中で、彼は自分が発見した諸地方をインド諸国と呼んでいた。

 

コロムバスのこういう誤りの結果として、その後これらの不幸な諸地方にインド諸国という名称がこびりついてしまうことになり、そして、ついに新しいインドが古い、それとは全く別のものであることが明らかに発見された時、前者は西インドと呼ばれて後者と区別され、後者は東インドと呼ばれるようになったのである。

 

〜引用ここまで~

 

フアナ島(現キューバ)やエスパニョーラ島(現ハイチ)など西インド諸島を次々発見したコロンブス。

 

船員による入植地に対する略奪や、その責任によって投獄を経験した彼ですが、中でも西インド諸島の発見は大きな功績であったとされています。

 

インドと勘違したことで、本当のインドが発見された際には、本物の方が“東インド”として区別されるというややこしさが残ったようです。

 

アダム・スミスの見解から、コロンブスは自身が発見した場所をインドだとして譲らなかったようですね。

 

シパンゴ(ジパング)という発音に似た山があるということなど、些細な一致を根拠に意見を曲げなかったというのはどこか人間味が感じられました。

 

とはいえ、彼がヨーロッパの西側の航路を見つけたことによって、じゃがいもやトマト、トウモロコシなどの新たな食糧を輸入したり、何よりヴァスコ・ダ・ガマやマゼランらの航海に繋がったというのは歴史の面白い点でもありますね。

 

そんなコロンブスの一面が知れた節があったので、国富論の箸休めに紹介させていただきました!

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