経済

【国富論②】市場価格はいずれ自然価格に向かう~需要と供給~

経済

【前回記事】

 

   

この記事ではアダム・スミスの国富論を読み解いていきます。

   

見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。

  

経済学の始まりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。

  

前回は、分業の効果と貨幣の起源について触れていきました。

   

分業によって部分的な専門性が上がり、生産も効率化されますが、自分の生産物では生活はできません。

  

その生産物を何かに交換するための媒介として貨幣が登場したのである、とアダム・スミスは分析しました。

   

生産物を貨幣と交換するとき、基準となりうる生産物がもつ価値とは何なのでしょうか?

   

今回のテーマは“使用価値交換価値”についてです。

 

 

使用価値と交換価値

  

〜引用 第一編 第四章より〜

 

貨幣がすべての文明国で普遍的な商業用具になったことで、あらゆる種類の品物は売買され、相互に交換されている。

 

人が品物を貨幣と、あるいは品物同士で交換する時に、自然に守る法則とは何であるのかを、私はこれから検討することにしよう。

 

これらの法則が、品物の相対価値ないし交換価値を決定するのである。

 

注意すべきは価値という言葉に二つの異なる意味があり、時にはある特定の物の効用を表わし、時にはそのものの所有がもたらす、他の品物を購買する力を表すということである。

 

一方は「使用価値」、もう一方は「交換価値」と呼んでいいだろう。

 

最大の使用活用を持つものが、交換価値をほとんど、あるいは全く持たないことがしばしばある。

 

逆に、最大の交換価値を持つものが、使用価値をほとんど、あるいは全く持たないこともしばしばある。

 

例えば、水ほど有用なものはないが、水ではほとんど何も購買できないだろうし、水と交換に手に入れられるものはほとんど何もない。

 

逆に、ダイヤモンドはほとんど何の使用価値も持たないが、しばしばそれと交換に他のものを極めて大量に手に入れることができる。

 

〜引用ここまで~

 

マルクスの資本論の記事を読んでくれた方でしたら、使用価値交換価値という聞き覚えがあるワードが出てきましたね。

 

マルクスの資本論では、使用価値とは役に立つ能力のことを言っていますが、それについてはアダム・スミスも同様です。

 

パンであれば腹を満たす、毛皮であれば寒さから身を守るなど、そのものを使用して得られる価値を指しています。

 

スミスは、交換価値の真の尺度は何かを分析しています。

 

彼によると交換価値労働、地代、利潤に分けることができると述べています。

 

・労働

例えば狩猟民族の間で鹿一頭を狩るのに半日を要したとします。

同じ民族の間でビーバーを狩るのに丸1日を要したとしたら、ビーバーを狩る労力は鹿を狩る労力の2倍です。

ビーバー一頭を差し出せば、鹿二頭と交換できる。

これが交換価値がもつ労働の要素です。

  

・地代

当時の農家は地主に土地を払い、その土地に労働者を呼び込む資本家という立ち位置が主流でした。

生産するためには農地が必要であり、例え作物を作らないとしても地主に地代を払う必要があります。

また、家畜や役畜の維持、管理にもコストがかかるため、その要素が地代として交換価値に上乗せされます。

 

・利潤

農業者の利益となる部分です。

 

何か農業生産物を購入する場合、これら三つの要素に対して対価(貨幣)を支払っていると述べています。

 

 

商品の自然価格

  

〜引用 第一編 第七章より~

 

どの社会や近隣地方にも、労働と資本との様々な用途ごとに、賃金と利潤のどちらにも通常率あるいは平均率がある。

 

この率は、社会が富んでいるか貧しいか、前進状態にあるか衰退状態にあるかなど、社会の一般的事情によって、また一つにはそれぞれの用途の特定の性質によって、自然に規制されている。

 

同じように、どの社会や近隣地方にも地代の通常率あるいは平均率があり、一部はその土地が一致している社会や近隣地方の一般事情によって、また一部はその土地の本来の、または改良された肥沃度によって規制される。

 

この通常率あるいは平均率は、それが通例となっている時と場所での賃金、利潤および地代の自然率と呼んでいいだろう。

 

ある商品の価格が、それを算出し、加工し、市場に持って来るのに使用された土地の地代と労働の賃金と資本の利潤と、それらの物の自然率によって支払うのに足りるだけの額よりも、多くも少なくもないならば、その時の商品はその自然価格と呼んでもいいもので売られているのである。

 

〜引用ここまで~

 

自然率や平均率など少し馴染みの薄い言葉が出てきましたが、自然価格とは言わば丁度いい価格のことです。

 

スミスは、ある商人が近隣地方で、仕入れた商品を原価のまま売るとしたら損失者になると言っています。

 

当たり前の話ですね、原価のままでは利益を得ることはできず、生計も立てられません。

 

一方、利益が出たとしても、商品をその地方の相場よりも安く売らなければならないとしたら、同様に損失であるとも主張しています。

 

理由は、その資本を他の別のことに使用していれば、商人はもっと利潤を上げたかもしれないからです。

 

相場をみる基準の一つが自然価格なのです。

 

では自然価格はどのように決まっていくのでしょうか。

 

それは市場価格が大きく関係しています。

 

 

商品の市場価格

 

〜引用 第一編 第七章より~

 

ある商品が通常売られる実際の価格は、市場価格と呼ばれる。

 

それは自然価格を上回ることも、下回ることも、それとちょうど同じであることもあり得る。

 

商品の市場価格は、実際に市場に持ってこられる量とその商品の自然価格、つまりその商品を市場に持ってくるために支払わなければならない地代と労働と利潤との総価値を支払う意思のある人々の需要との間の割合によって左右される。

 

そのような人々を有効需要者、彼らの需要を有効需要と呼んでいいだろう。

 

そのような需要はその商品を市場に持ってこさせるという効果を上げるのに足りるであろうからである。

 

市場に持ってこられる商品が有効需要に達しないときには、それをもってくるために支払われねばならない地代と賃金と利潤との総価値を支払う意志のある人々が全部、彼らの欲する量を供給されることはあり得ない。

 

彼らのうちある者は、全くそれなしでいるよりは、もっと支払ってもよいと思うだろう。

 

商品を取得することの重要性が、彼らにとって大きいか小さいかに応じて、同じ不足が引き起こす競争も大きかったり小さかったりするだろう。

 

都市の封鎖機関や飢饉のときに生活必需品の価格が異常なものになるのはそのためである。

 

(中略)

 

市場へ持ってこられた量がちょうど有効需要を満たすに足りうるだけあって、それ以上でない場合には、市場価格は自然に自然価格と正確に同じになるか、あるいは判断しうる限りそれに近くなる。

 

〜引用ここまで~

 

需要と供給によって価格が変動することを示した章ですね。

 

必要とされている需要に満たない商品の量では、必要としている人を全て満足させることはなく、中にはより多く払ってでもそれを手に入れる者もいるということを述べています。

 

市場に持ってこられた量が需要と供給を同じになるに連れて、価格は自然価格に近づく……。

 

まさに需要供給曲線のイメージですね。

 

illust AC より引用

 

スミスは、「様々な偶然が市場価格を引き上げたり、それより引き下げたりするが、いずれは自然価格に向かう」と主張しています。

   

   

まとめ

・交換価値=労働、地代、利潤

・自然価格=生産にかかった労力やコストによって決まる妥当な価格

・市場価格=需要と供給によって決まる価格

・市場価格は自然価格に向かう

  

使用価値、交換価値の話から一気に需要と供給の話に入っていきましたね。

  

上で紹介した第一編 第七章が明確に需要と供給に言及した最初の章です。

 

自然価格はその商品の本来の価値がどれくらいなのかを考える良いツールにもなります。

 

今その商品が高い理由は何なのか。

需要と供給は適正なのか。

 

知名度だけで価格が高騰しているのではないか。

 

ほとぼりが冷めたら価格はどうなりそうか。

 

それが見えないまたは、見る能力がない場合は商品を購入する割合を減らしたり、買わないという選択をするのも一つの手ですね。

 

自然価格を意識するということは、周りに惑わされないための自衛手段としてもひと役買ってくれそうです。

 

【次回記事】

 

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