今回からまとめていくのは、万有引力の発見や完成の法則、作用反作用の法則を導き出した天才アイザック・ニュートンです。
彼の生まれから歴史的な発見までをなぞりながら、人柄や功績について書いていきます。
未熟児で生まれたアイザック
1643年1月4日(旧暦:1642年12月25日)、イングランドのリンカンシャー州にて生を受けたアイザック・ニュートン。(以降アイザック)
予定よりも2、3ヶ月早い未熟児として生まれました。
充分に成長せずに生まれた彼を見た産婆は、“この子の命は長くないだろう”と言ったそうです。
予想に反して元気に育っていったアイザック。
父のアイザック・ニュートン(息子と同じ名前)がすでに他界していたこともあり、母のハナ・アスキューは別の男と再婚しました。
再婚を期に母はアイザックの元を離れてしまい、彼は母方の祖母のもとで育てられることになります。
物心がついたときから、水車の原理や身の回りのものを使った物作りに興味を持っていたアイザック。
彼の才能に気づいた親類は、彼をグラマースクールに通わせることにします。
グラマースクール時代
グラマースクールに通いはじめたアイザックですが、身体も小さく内気で無愛想な面があったことから、からかいの対象になってしまいます。
しかしある時、自分よりも身体の大きい相手に喧嘩で勝ったことによって自分に自信を持てるようになったそうです。
そんな学校生活を送り2年が経ったある日。(アイザックが14歳の頃)
再婚相手が死んだことで、実母であるハナが帰ってきました。
再婚相手との間にできた3人子どもも一緒でした。
ハナは元夫が残した農園の経営を手伝わせるため、アイザックの学校通いを止めさせてしまいました。
休学中のアイザック
アイザックは学校に通えなくなったことよりも、実の母から愛されなかったことや母の愛を受けて育った子どもたちに怒りを示していました。
母子共に殺害をほのめかすような恫喝をするほどだったといいます。
しかし行動までには至らず、母の言う通り農業を始めるアイザック。
彼は自分の仕事をしているうちに、農業に使う水車に興味を持っていきました。
農業のかたわら水車の研究や水車作りに熱中するアイザック。
やるべきことも放り出し研究に熱中する姿をみて、母はアイザックの復学を許可します。
こうして彼はグラマースクールに戻り無事卒業。
そして彼が本当に勉強したかった自然哲学や数学が学べるケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジへの進学を果たします。
ケンブリッジ大学時代
ケンブリッジ大学に合格する賢さは持ち合わせていたものの、学費を払い続ける余裕がありませんでした。
そこで彼はサイザー(大学講師のお手伝いさん)として働きながら、学費を工面していくことに。
しかし彼がサイザーという立場から、他の生徒から嫌がらせを受けたりと苦労が耐えない学校生活を送ることになります。
これらの幼少期から大学期までの体験が、彼を慎重で疑り深い性格にしたことも予想できますね。
1663年(大学3年生)になると彼は独自に研究を始めるようになります。
数学についてもこの頃から学び始めますが、ここで恩師であるアイザック・バローに出会います。
バローはケンブリッジ大学の数学教授であり、アイザックの才能をいち早く見出した人物でもあります。
彼は時間と空間の絶対性を数学的に応用した思想を持っていて、アイザックはこの思想に大きく影響を受けたとされています。
彼の下で数学を学んだアイザックは、数学を学び始めてからわずか1年あまりで、校内トップレベルの成績になったそうです。
ペストの流行
彼が学位を取得する頃、ロンドンではペストが大流行。
1665年~1666年にかけて、大学も閉鎖を余儀なくされます。
大学の休校はアイザックにとって都合の良いことでした。
大学での雑務から開放されると同時に、自分の研究に没頭できるからです。
彼はこの休校中の1年半あまりに、万有引力、二項級数、対数の無限級数、微分積分の基礎などを発見していくことになります。
数々の世紀の発見をしたこの期間を後に“驚異の年”と呼ぶようになりました。
ここまででこの記事は一旦の区切りとします。
彼が学術的な成果を出すまでには、色んな出会いやハードルがあったことが分かります。
リンゴの実が落ちるのを見て万有引力の発見に至ったとされますが、実際にこのような出来事があったのかは定かではないそうです。
引力の説明のために“分かりやすい例として挙げただけ”、というのが今の通説になっています。
しかし実際にニュートン生家にリンゴの木が植えてあることから、何らかの影響を与えたものと考えられます。
この後の彼の人生もまた面白いものになっていきます。
次回も引き続き、彼の人生や功績についてまとめていきます。
続く…。↓
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