の続き…。
世界の科学の中心
1662年になるとフックは王立協会の実験監督に任命されます。
世界中から集まる実験結果を監査したり、実験自体を取り仕切る立場になった彼は、最先端科学の中心に位置するようになりました。
これによって多くの学者と意見を交わしますが、時には対立し恨みを買うこともありました。
後に万有引力の法則を発見するアイザック・ニュートンとはかなりの激論が繰り広げられたそうです。
激務になったフックですが、1663年頃になると彼は顕微鏡を使った観察結果からミクログラフィア(顕微鏡図譜)をまとめます。
ミクログラフィアには当時の最高倍率で観察した生物の様子を事細かに書き写しています。
顕微鏡によってコルク(↑図右上)を観察した際、フックは泡の集まりのような構造を発見しました。(細胞壁)
どの生物にも見られるこの構造が修道院の小部屋が並んでいる様子に似ていたため、Cell(小部屋、小区画)と名付けました。
フックのその後
王立協会で様々な研究施設を整備し、研究に最適な環境を整えていったフック。
その反面、常に忙しくよく他人と論争をしていたこともあったことから、人格的な評価は高くなかったよです。
彼について書かれた伝記には…
・他人の発見を自分の手柄として発表する
・疑い深く気難しい
・卑劣で嫉妬深い
・短気
…
など散々な言われようだったようです。
しかしこれは科学者の実験監督者である側面から、常に疑って判断していた事が大いに関係していると考えられます。
間違った研究結果を世に送り出さないために、必然的にそのような面を持ち合わせたのかもしれませんね。
彼の日記を研究した人物からは「嫉妬深く狡猾なフック像は完全に間違いである」という声もあります。
事実、生来の友人やボイルなどとよくお茶や夕食を共にしたり、助手の姪やいとこを招いて数学を教えるなど、人情溢れるエピソードも判明しています。
1703年3月3日、ロンドンにてその人生に幕を下ろしたフック。
彼亡き後の王立協会のトップに立ったのは、かつて激しく対立したアイザック・ニュートンでした。
フックの死後も二人の間の確執を解くことはできず、ニュートンはフックの肖像画や彼の論文のほとんどを処分してしまいました。
後にフック(と思われる)肖像画も描かれますが、本物の肖像画は消え去っていたため、本人の顔を正確に描いているのかどうかは定かではないようです。
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