の続き。
聖書の翻訳
フリードリヒ3世によって匿われたルターがはじめに行ったことは、聖書をラテン語からドイツ語に翻訳することでした。
10か月に及ぶ翻訳作業と活版印刷の発展によって、多くのドイツ人が聖書を読むことができるようになりました。
聖書には贖宥状のことも、ローマ教会の教えが絶対であることも書かれていませんでした。
聖書の中のイエスや弟子は、当時のローマ教会聖職者のような贅沢はせず、質素な生活をしていたことが分かり、教会を批判する声は瞬く間に広がっていきました。
ドイツ農民戦争
ルターの主張に強く賛同していた人物のひとりの、トマス・ミュンツァーがいました。
彼はルターの影響を受け、宗教改革者となります。
しかしトマスの思想はルターの主張を超え、聖書では否定されていなかった“領主の存在”を否定しはじめます。
過重な労働や税金への拒否を訴えたのです。
この訴えに呼応した農民たちによって勃発した戦争が“ドイツ農民戦争”です。
30万人の農民が決起したこの戦争は、ドイツ中部から南部にかけて戦火は広がっていきました。
その一方、ルターはドイツ農民戦争には強く反対していました。
聖書の教えからかけ離れた行動に異を唱え、ドイツ諸侯に鎮圧を呼びかけます。
最終的に各諸侯によって弾圧され、この戦争は10万人の死者を出した末に沈静化します。
戦争によって失ったものは多かったですが、この戦争によってルターの考えは全ドイツが知ることになりました。
神聖ローマ帝国の危機とルター派の容認
一度ルター派を容認して、諸侯の力を集結させよう。
ドイツ農民戦争の渦中、カール5世はルター派の禁止決議を進めていました。
しかし状況は一変。
コンスタンティノープルを攻略したオスマン朝がウィーンに攻めてきたのです。
直前までフランスと戦争していた神聖ローマ帝国の国力は疲弊しきっています。
そこで最重要拠点であるウィーンを守るために、カール5世がドイツ諸侯の力を集結させようとしました。
そうなるとウィーンの危機に際し、ルター派の諸侯をも味方に引き入れる必要があります。
そのためルター派の禁止決議は一時保留扱いにし、諸侯の領内における宗教改革を容認しました。
その結果、オスマン朝に攻められたウィーンは落城寸前まで追い込まれますが、冬将軍によりオスマン軍が撤退、危機を脱することができました。
プロテスタントの誕生
危機も去ったことだし、ルター派の禁止を…。
オスマン帝国を撃退したカール5世は、ルター派の禁止決議を再開させます。
しかし、この頃になるとルター派の勢いは収まらず、決議の際には5人の諸侯と14の都市が決議に反発。
カール5世に向けて抗議文を突き付けます。
この一連の抗議(プロテスト)から、ルター派はプロテスタントと呼ばれるようになっていくのでした。
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