の続き…。
エピソード5「イッソスの戦い」
退路を断たれた4万のマケドニア軍は、背後のダレイオス3世率いる10万のペルシャ軍と戦う覚悟を決めます。
軍を反転させたマケドニア軍は、ペルシャ軍とピナロス川を挟んで向かい合いました。
紀元前333年、ここに”イッソス戦い”が始まります。
この戦いでアレクサンドロスがとった作戦は、精鋭であるヘタイロイ騎兵と精強部隊を右側に配置し、敵の左翼を突破するというものでした。
面白いことにペルシャ軍の戦術も同じであり、精鋭の騎兵部隊を軍の右に配置する作戦でした。
両軍の違いは、精鋭の騎兵部隊を険しい山地(川の上流)に展開するか、緩やかな平地(川の下流)に展開するかでした。
ダレイオス3世率いるペルシャ軍は、山地側(自軍の左翼)に他民族からなる軽装兵で守りを固めていました。(つまり甘く見ていた。)
山地は比較的小数の兵でも守りが容易なうえ騎兵隊の動きが鈍るため、マケドニア軍は主力部隊を展開しないと考えたのです。
エピソード6「4万と10万」
遂に戦いが始まります。
右翼のアレクサンドロス率いるヘタイロイ騎兵隊は、先ず精強兵に上流の川を渡らせ橋頭堡(橋を守るための砦)を作ることを第一としました。
もちろん敵兵から見ると天然の要塞に群がる小兵であり防衛も容易です。
それでもマケドニア兵は橋頭堡を作るための決死の突撃をしていきます。
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一方下流ではマケドニア軍騎兵とペルシャ軍騎兵と激しくぶつかり合います。
物量で圧倒的に不利なマケドニア騎兵は、後退しつつも隊列はなんとか維持していました。
どの戦場でもマケドニア兵が退くことはありませんでしたが、兵の隊列が崩壊するのは時間の問題でした。
エピソード7「橋頭堡」
戦いが長引くにつれてマケドニア軍は不利になっていきます。
マケドニア軍中央の重装兵は、味方の騎兵隊が押されるとともに徐々に退いていきました。
それほどペルシャ軍の右翼(下流側)の騎兵体は強靭だったのです。
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下流の部隊の隊列が崩壊し始める頃、遂に上流では橋頭堡(きょうとうほ)が完成します。
アレクサンドロス率いるマケドニア最強と言われるヘタイロイ騎兵隊が川を渡ったのです。
橋頭堡は敵の攻撃を防ぐ壁のようなものです。
“無傷”のまま隊列を整えたヘタイロイ騎兵隊は、アレクサンドロスの号令とともに敵左翼に突撃。
大将自らが先頭に立った突撃の勢いは止まることはありませんでした。
エピソード8「決着」
ダレイオス3世から見ると戦況は圧倒的有利。
しかし突然左翼が崩壊し、敵の騎兵隊がみるみる迫ってきます。
対抗できる可能性のある騎兵隊は右翼に展開しています。
勝利を確信したペルシャ軍の気分が、一気に地獄に落とされた瞬間です。
なんとダレイオス3世は、この混乱によって兵どころか妻と娘をも残したまま戦線を離脱してしまいます。
我が王が逃げたとペルシャ軍に動揺が走り、各戦場で敗走が始まります。
遂にはペルシャ全軍が敗走し、マケドニア軍の勝利が確定しました。
更に逃げたペルシャ軍陣跡から武具や財宝、資源などの戦利品も獲得。
遠征における資金の補充もできたという大戦果を挙げたのである。
その後…
妻と娘を人質にとられたダレイオス3世は、アレクサンドロスに和睦を求めるがこれを拒否。
マケドニア軍は進軍を続けシリア方面を征服します。
その結果紀元前332年頃、一大都市であるエジプトをも手中に収めることになります。
ファラオとしてのアレクサンドロス大王
アレクサンドロスのエジプト支配は、反ペルシャであったエジプト国民から大歓迎されまし。
支配といってもエジプトの文化を破壊することはなく、宗教や歴史に敬意を示すことで平和的に征服するつもりでした。
アメン神への礼拝、破損した神殿の修復など、言葉でなく行動で示したアレクサンドロスは多くのエジプト国民からも信頼を勝ち取っていきました。
その結果彼は、“メリアムン・セテプエンラー”という即位名を与えられ、エジプト国民からファラオとして認められたのです。
即位名の意味はおそらく…
メリアムン=アメンに愛されし者
セテプエンラー=ラーに選ばれし者
です。(メリアムンについては確たる根拠がなかったのでヒエログリフの文字の意味から推測。)
エジプトで十分に補給ができたマケドニア軍は、間もなくペルシャと最終決戦に打って出ることになります。
ガウガメラの戦い①に続く↓
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