今では多くの人に愛され、毎日の習慣になっているほど日常に溶け込んでいるコーヒーという飲み物。
コーヒーは長い歴史の中で、単なる飲み物を超えた社会的・政治的な存在として扱われてきました。
ある時代・地域では政府や権力者がコーヒーを禁止し、カフェを閉じ、コーヒー豆を焼き払ったり、最悪の場合には死刑を科すことさえありました。
このような出来事は現代人にとって信じがたいものですが、歴史を掘り下げると、なぜコーヒーが危険視されたのか、その背景が見えてきます。
今回記事では、メッカ、オスマン帝国(イスタンブール)、スウェーデン、プロイセンの4つの事例を通して、コーヒーに対する疑念と取り締まりの歴史についてまとめてみたいと思います。
参考記事)
・4 times drinking coffee was illegal—or even punishable by death(2026/02/08)
コーヒーの広がりと疑念

コーヒーはアフリカ東部のエチオピアが起源と言われています。
しかし15世紀のイエメンでは、スーフィー(スーフィズムに属するイスラム教徒)が祈りの最中に目を覚ましているための飲み物として、次第に飲用文化が成熟しました。
やがて香り高い飲料として世界中に広まり、多くの人々の心を捉えました。
一方で、ある場所では権力者や官吏によってコーヒーは疑わしいものとして扱われました。
その理由としては、健康上への懸念、経済的理由、さらには人々が自然と集まって議論する場となることへの政治的警戒などが挙げられています。
こうした不信感が、時には国家的な禁止措置へとつながったのです。
①16世紀初頭のメッカ「コーヒー禁止令」
1500年前後、コーヒーはメッカに伝わりました。すぐに地元の住民や巡礼者向けのコーヒーハウスが登場し、人気を博しました。
しかし1511年、カイル・ベイ(Kha’ir Beg)というメッカの高官はコーヒー飲用を有害と見なして学者を招集し、禁止を決定しました。

彼はコーヒーを「身体に悪く、心を狂わせ、人々を集めて不品行を助長するもの」として批判しました。
実際、コーヒーハウスは閉鎖され、コーヒー豆は焼かれ、飲んだ人々には鞭打ちなどの処罰が加えられました。
一方でこの禁止令に異議を唱える声もあり、当時のスルタン・アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(Al-Ashraf Qansuh al-Ghuri)は、公的な場での飲用は禁じるものの、私的な飲用は許可するという勅令を出しました。

その結果、メッカの人々は再びコーヒーを楽しむことができるようになり、やがてコーヒーハウスの存在も復活しました。
ここで注意すべき点として、当時の記録が断片的であるため、処罰の詳細や実際にどれほど広範な禁止措置が取られたのかについては、歴史学者の間でも解釈に幅がある可能性があります。
②オスマン帝国イスタンブール「ムラト4世と死刑令」
約100年後、オスマン帝国のスルタン・ムラト(Murad)4世は、イスタンブールでコーヒーハウスを危険視し、厳しい禁止措置を取ります。

彼は人々が集まる場が反乱や陰謀の温床になり得ると考え、公衆でのコーヒー飲用を禁止しました。
ムラト4世自身が反乱鎮圧の結果として王座についた背景があり、そのためか極端なまでの統制を行ったとの伝承もあります。
この時の禁止令では、公の場でコーヒーを飲んだ者に対して死刑という厳罰が科せられたとされています。
また、一部の逸話では、ムラト4世が変装して街を巡り、違反者を処刑したという話も伝わっていますが、これらは水戸黄門(徳川光圀)の浮世巡りのような話であり、後世の誇張を含んでいる可能性がある点にも留意が必要です。
③スウェーデン「5度にわたるコーヒー禁止」
17世紀以降、コーヒーはヨーロッパ全土に広がりましたが、スウェーデンでもコーヒーに対する不安が生まれました。
ある有名な話では、スウェーデン王グスタフ(Gustav)三世が双子囚人を使ったコーヒーの危険性実験を行ったとも言われています。

これについてはスウェーデンウメオ大学の研究者が、この実験話は神話である可能性が高いとする見解を示しています。
それでも実際には、スウェーデン政府は1756年、1766年、1794年、1799年、1817年の5回にわたり、植民地産コーヒーの輸入を禁止しました。
これは主に貿易赤字の解消を目的とした政策であり、当局は飲用や販売を小規模で行っていた市民も摘発し、罰金や投獄まで行われました。
このように、政治的・経済的な背景がコーヒー禁止の中心にあったことがうかがえます。
④プロイセン 「“コーヒー嗅ぎ”による取り締まり」
1777年、プロイセン王フリードリヒ2世(Frederick the Great)はコーヒー消費への批判を公にしました。

彼は、コーヒーが国民の支出を増やし、資金を国外へ流出させていると考え、庶民は「ビールを飲むべきだ」と述べました。
1781年、彼は王室によるコーヒー独占事業を設立し、市民が自ら豆を輸入・焙煎することを禁止しました。
コーヒー価格が高騰すると、密輸が横行しましたが、それに対抗するために「Kaffeeschnüffler(コーヒー嗅ぎ官)」と呼ばれる秘密の捜査官が配置されました。

彼らは通常戦争で負傷した退役軍人で、密かに街を巡り、焙煎コーヒーの香りを嗅ぎ分けて摘発したと言われています。
摘発された者は重い罰金を科せられ、その一部は摘発官に分配される仕組みでした。こうした制度はやがて市民から大きな反発を受け、撤廃されていきます。
現代に続くコーヒー

かつては反乱の温床と疑われ、国家財政を脅かす存在と見なされ、時には命を奪われる理由にまでなったコーヒーですが、それでも人々は飲むことをやめませんでした。
禁止されても、罰せられても、密かに焙煎し、香りを楽しみ、語り合う場を守り続けたその歴史は、コーヒーが単なる嗜好品ではなく、人と人とを結びつける文化そのものであることを物語っています。
今日、私たちが何気なく手にする一杯のコーヒーの背後には、こうした長い葛藤と人々の情熱が積み重なっているというワケですね。
まとめ
・コーヒーは歴史のさまざまな時代で、健康・経済・政治的理由から禁止の対象となった
・コーヒー禁止令の背景には、人々が議論を交わす集いの場になってしまうことへの警戒があった
・近代では禁止は撤廃され、現代の関心は健康影響や経済・環境問題に移っている

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