人々の平均寿命が世界的に伸び続ける現代において、長く生きられることは多くの恩恵をもたらす一方で、加齢に伴う心身の変化という課題も同時に抱えることになります。
特に、記憶力や注意力の低下、日常行動のスムーズさが失われていくことは、多くの高齢者にとって切実な問題となっています。
こうした中、なぜ同じ年齢であっても心身ともに若々しさを保つ人がいる一方で、急速な衰えに直面する人がいるのかという点について、世界中の研究者が長年にわたり検討を続けてきました。
その過程で近年特に注目を集めているのが、複数の言語を操る「マルチリンガル」いわゆる「多言語話者」が、脳の老化にどのような影響を与えるかというテーマです。
今回のテーマは、そんな言語と認知機能との関係についての研究です。
参考記事)
・Speaking Multiple Languages May Slow Brain Aging, Study Suggests(2025/12/01)
参考研究)
多言語話者と脳の活性

日常的に二つ以上の言語を使う人々の脳の中では、常に複数の言語が同時に活性化していることが知られています。
話す際には適切な言語を選び、他の言語が干渉しないよう抑制し、必要に応じて言語を切り替えるといった高度な認知処理が絶えず行われます。
これは一種の「脳の筋トレ」のような働きを持つと指摘されており、生涯にわたってこうした認知的トレーニングが積み重ねられることで、加齢に伴う脳の機能低下を和らげる可能性があるのではないかと考えられています。
実際、二言語話者(バイリンガル)と一言語話者(モノリンガル)を比較した先行研究では、後年の認知機能においてバイリンガルに優位性が見られるという報告がある一方で、明確な差が確認されないという結果もありました。
そのため、これまでの研究には一貫性が欠けている点が課題とされてきました。
しかし今回紹介する新たな研究は、この議論に重要な示唆を加えるものです。
本研究はヨーロッパ27か国、51歳から90歳までの86,000人以上を対象にした極めて大規模な調査であり、これまでの知見を大きく補強する成果を示した点が特徴です。
さらに研究チームは、二言語か多言語かにとどまらず、複数言語を話す「度合い」が加齢にどのように関わるかという、より精密な視点から分析を行いました。
マシンラーニングを用いた「生物行動年齢ギャップ」の測定

研究者たちはマシンラーニング(機械学習)の手法を用い、参加者の記憶力、注意力、日常生活動作、教育歴、歩行能力、さらには心臓病や難聴といった健康状態など多岐にわたる指標から「見かけ上の年齢」を推定しました。
そして、その結果を実年齢と比較して 「生物行動年齢ギャップ」 を算出しました。
• 実年齢より「若く見える」場合 → ネガティブギャップ
• 実年齢より「年老いて見える」場合 → ポジティブギャップ
という形で評価され、認知的・身体的にどの程度加齢が進んでいるように見えるかが示されました。
同時に研究チームは、各国の住民がどれほど多言語を話しているかを、以下の指標を用いて評価しました。
• 他の言語を話さない人の割合
• 1つの追加言語を話す人の割合
• 2言語、3言語以上を話す人の割合
この分析により、多言語使用の度合いが高い国ほど、脳は実年齢より若く見える傾向が強いことが明らかになりました。
多言語環境の国では老化の進行が遅い傾向
ルクセンブルク、オランダ、フィンランド、マルタといった多言語使用が一般的な国々では、住民が加齢に伴う認知的衰えを示すリスクが低いという結果が得られました。
一方、イギリス、ハンガリー、ルーマニアなど多言語使用率が低い国では、モノリンガル話者が生物行動年齢ギャップの点で不利な傾向が見られました。
特に注目すべきは、「1つ追加の言語を話すだけでも明確な保護効果が現れる」という点です。
そして、「話す言語の数が増えるほど効果が積み上がる、いわゆる“用量依存的関係”が示された」ことも極めて重要な発見です。
この傾向は特に70代後半から80代にかけての高齢層で強く発現しており、多言語を話す高齢者は一言語のみを話す人に比べて、加齢による衰えに対してより強固な“レジリエンス(回復力・耐性)”を持つように見えるとされています。
経済力や教育、政治状況では説明できない要因が残った

多言語使用の効果が他の要因の影響によるものではないかという可能性を排除するため、研究者たちは空気質、移民率、ジェンダー不平等、政治的安定性など、各国の数十にのぼる指標を統計的に調整しました。
その結果、多言語使用の保護効果は依然として顕著であり、他の社会経済的要因ですべて説明することはできなかったことが示されています。
なお、この研究は観察研究であるため、因果関係を断定できない点については研究者自身も慎重な姿勢を示しています。
この点については事実が曖昧であるため、因果関係の断定には注意が必要です。
多言語使用は「万能薬」ではないが、日常にある有力な保護要因
研究自体は脳構造の直接測定を行っていませんが、他の神経科学研究では、複数の言語を使い分けることで脳の「実行機能ネットワーク」が強化されることが確認されています。
これは注意を向けたり抑制したり切り替えたりといった、高次の認知プロセスを司るネットワークです。
また、過去の研究によって、長年二言語を使用する人々の海馬の体積が大きい傾向にあることが示されています。
これは海馬の構造的強さは記憶力維持や神経変性疾患への抵抗性に関係すると考えられています。
これらの知見と今回の大規模研究の結果は整合性が高く、語学経験が脳老化の防御因子となりうる可能性を示唆しています。
今回の研究は大規模データ、多国間比較、そして認知・身体・社会環境を統合した包括的な分析により、「多言語使用は健康的な加齢と強く関連する」という明確なパターンを示した点で非常に価値のあるものです。
もちろん、多言語を話すこと自体が魔法のように老化を止めるわけではありません。
しかし、生涯にわたり脳に継続的な刺激を与える習慣として、言語経験は他のどの生活習慣にも劣らない影響を持つ可能性があることが示されたと言えます。
まとめ
・多言語使用は加齢に伴う認知・身体機能の低下を和らげる可能性があり、特に70〜80代で保護効果が強く現れる
・話す言語数が増えるほど保護効果が大きくなる「用量依存的関係」が確認された
・社会経済要因を調整しても多言語使用の効果は維持され、語学経験そのものが脳のレジリエンスに寄与している可能性が示唆された


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