私たちは日々、視覚・聴覚・嗅覚などの五感を通して、膨大な情報を受け取っています。
それらの経験はすべて、記憶として脳に保存され、必要なときに取り出せるように管理されています。
このような記憶の定着には「睡眠」が欠かせないことが、これまで数多くの研究によって明らかにされてきました。
私たちがよく知られているように、眠っている間に脳はその日の出来事を整理整頓しているのです。
しかし、脳の記憶に関する働きは「過去」に関するものだけではありません。
富山大学の井ノ口 馨教授らによる研究チームは、睡眠中に脳が未来の出来事に備える準備も行っていることを、実験を通して明らかにしました。
これは従来の「記憶=過去の保存」という理解を覆す画期的な知見であり、記憶の予測的側面に光を当てる新たなアプローチといえます。
では、研究からどのようなことが明らかになったのか……。
本記事にて、井ノ口教授らによる研究の内容についてまとめます。
参考記事)
・Sleep Helps Your Brain Prepare For The Future, And Now We Know How(2025/05/12)
参考研究)
・Parallel processing of past and future memories through reactivation and synaptic plasticity mechanisms during sleep(2025/04/28)
睡眠中の脳が「未来の記憶」に備えるとは?

従来の記憶研究では、私たちがある経験をした後、それを脳が処理し、睡眠中にその情報を定着させていると考えられてきました。
このプロセスは基本的に「過去志向的」なものとされていたのです。
たとえば、試験前の一夜漬けよりも、勉強した後にしっかり眠った後のほうが記憶に残っている……、という経験は多くの人が持っているでしょう。
富山大学の研究では、この睡眠と記憶の定着度の違いは、「これから起こる出来事の記憶」にまで関係していることが明らかになったのです。
このことは、単に記憶の保存を行っているのではなく、未来の記憶形成のためのネットワークを事前に構築しているということを意味します。
この発見は、「記憶とは未来を予測し、備えるためのツールでもある」という新たな視点を私たちに与えてくれます。
記憶の担い手「エングラム細胞」の働き
私たちの記憶は、単なる抽象的な現象ではありません。
脳内には「エングラム細胞(engram cells)」と呼ばれる特殊な神経細胞があり、これらが私たちの体験を物理的に記録しています。
たとえば、ある場所で楽しい出来事が起きた場合、その記憶はエングラム細胞によりコード化され、後に「思い出す」ことができるようになります。
研究チームは、自由に動き回るマウスの脳内をリアルタイムで観察できる高度なイメージング技術を用いて、エングラム細胞の動きを詳細に追跡しました。
その結果、学習直後から睡眠中にかけて、エングラム細胞が再び活性化される様子が観察されたのです。
これは「記憶の再再生(replay)」と呼ばれ、過去の経験が繰り返し脳内で再現されることで、記憶が強化・定着されていくことを示しています。
このような活動は、特にノンレム睡眠中の「スローウェーブ」段階において活発に行われることが知られており、脳の「夜間の仕事」とも呼ばれています。
「エングラム・トゥ・ビー細胞」の発見――未来を担う神経細胞
さらに興味深いのは、研究チームがこれまで記憶に関与していないと思われていた別の神経細胞群を発見したことです。
これらは「エングラム・トゥ・ビー細胞(engram-to-be cells)」と名付けられました。
この細胞群は、学習前や学習中には特定の記憶とは関係を持っていません。
しかし、学習後の睡眠中に、既存のエングラム細胞と協調して活動を始めることが明らかになったのです。
つまり、この段階で「未来の記憶の受け皿」として準備を進めているということになります。
脳は未知の未来に対しても、積極的に準備をしているのです。
これは生存戦略として極めて合理的であり、私たちが新しい環境や出来事に素早く適応できる理由の一端を示しています。
コンピューターモデルによる脳活動の再現

本研究では、実験のみならず、脳の記憶処理をシミュレーションするためのニューラルネットワークモデルも開発されました。
研究チームは、脳の記憶中枢である海馬(hippocampus)の活動を模倣するモデルを使って、エングラム・トゥ・ビー細胞の組織化に関わるメカニズムを解析しました。
その結果、モデル内では「シナプス抑制(synaptic depression)」および「シナプス・スケーリング(synaptic scaling)」という現象が、エングラム・トゥ・ビー細胞の連携に不可欠であることが確認されました。
これらのメカニズムは、神経細胞の接続強度を調整する働きを持ち、脳が過度な興奮状態を避けつつ、効率よく情報を処理するために用いられています。
モデル内でこれらの機能を無効化すると、エングラム・トゥ・ビー細胞が正常にネットワークを形成できなくなり、記憶の形成に支障をきたすことが確認されました。
このことは、記憶が形成される背景には、精密な「神経接続の調整作業」が存在しており、それが主に睡眠中に行われていることを示しています。
睡眠の質が記憶の「未来」を左右する
この研究が示す最大の意義は、睡眠が「未来の学習成果」にも影響する可能性があるという点です。
これまで「睡眠は過去の整理のため」とされてきた概念に対し、「睡眠は未来への備え」でもあるという新たな見解が加わったのです。
たとえば、ある出来事を学習した後に質の高い睡眠を取ることで、その出来事に関する記憶が定着するだけでなく、次に似たような情報を学んだときの記憶効率が高まる可能性があります。
これは、教育現場や認知症予防といった実用的な領域においても極めて重要な示唆です。
つまり、脳の活動や睡眠パターンを適切に調整することで、記憶力を最大限に引き出す方法が見つかるかもしれないのです。
本研究が示すように、睡眠は単なる休息時間ではありません。
むしろ、脳にとっては最も重要な情報整理・未来への準備時間であり、1日の中でも極めて生産的な時間と言えます。
まとめ
・睡眠中、脳は過去の記憶を整理するだけでなく、未来の記憶に備える神経ネットワークを構築している
・エングラム細胞(engram cells)とエングラム・トゥ・ビー細胞(engram to be cells)の協調活動が、新たな記憶の基盤を作り出している
・睡眠の質が、将来的な記憶能力や学習効率に大きな影響を与える可能性がある
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