【前回記事】
この記事では、山口謠司氏が著した“面白くて眠れなくなる日本語学”より、個人的に興味深かった内容を紹介していきます。
著書内で語りきれていない点などもの補足も踏まえて説明し、より雑学チックに読めるようにまとめていく積もりです。
今回のテーマは“「英」会話のはじまりとフェートン号事件”です。
本当の教育とは?
2020年4月から小学校での英語が必修になりました。
外国語を学ぶことは有意義なことだとは思いますが、個人的にはもっと日本語を学ぶべきだと思っています。
相手が何を伝えたいのかを汲み取る力、自分が伝えたいことは何なのか、それを伝えると相手がどのような感情を抱くのか……。
また、参考書や教科書が日本語で書かれていたり、学校の先生が日本語を話している以上、日本語を使って文脈を読み取ったり、推測をする必要があります。
このことについて本書では以下のように述べられています。
【引用】ーーーーーーー
具体的実践的な本当の意味での教育が必要なのに、「国際化」「グローバリゼーション」などという意味のない言葉が流行ると、それに流されて英語を勉強していれば良い大学に入れる、良い会社に入れると思ってしまうのでしょう。
「いい」「わるい」という物差しも、全て「グローバルスタンダード」という実態のない言葉によって数値化された世界が、内面化され埋め込まれたものでしかありません。
そして、そこにあるのはひたすら「利益」を追求する勉強のようなものに感じられるのです。
外国語は必要に迫られて勉強しなければ身につきません。
本当の「教育」とは何かを考えてみてください。
それは、教える人と教わる人とが相互にき付き合い、互いを認め、共感する力養うことです。
【引用ここまで】ーーーーーーー
英語もできないよりは出来た方が良いですし、文法も知らないよりは知っておいた方がいいです。
しかし、学校教育の中で養われるのはほんの一部でしかありません。
テストで点は取れるようになるかもしれませんが、本当の意味で使えるかどうかは全く別の問題です。
それ以前に、英語を使って何がしたいか、英語が使えたら何ができるのか、英語を使いたい理由などを考える“国語的”な要素が必要だと考えます。
理由については、何でも良いと思います。
ゲームで外国人とコミュニケーションがとりたい、有名人が英語で喋っている意味を聞いたり自分で言ってみたい、海外に行って英語でコミュニケーションをしたい……。
英語を使う目的があったうえで手段を学ぶ。
これはどんなことにおいても考えなければならないことですし、考えるためにはやはり国語力が必要です。
「英」会話のはじまり
では、我が国の英会話はいつ頃からはじまったのでしょう。
それは皆さんご存知、黒船来航です。
嘉永六年(1853年)、マシュー・ペリーが黒船を率いて浦賀に来航したことによって英語という言語が日本にもたらされました。
この時日本はオランダ語を理解する人はいましたが、英語で会話ができたり読み書きができる人はいませんでした。
このときペリー側は、オランダ語の通訳者を通じて日本側と交渉します。
この時対応したのは、オランダ通史の堀達之助(1823~1894)という人物でした。
彼は日本初の英語辞書である“暗厄利亜(アンゲリア)語林大成”を全て書き写していたため、言葉自体は知っていましたが流暢に会話することはできませんでした。
ちなみにアンゲリアは、ラテン語で“イギリス”を指す言葉です。
この頃は英会話や英語のことをアンゲリアと呼んでいました。
日本で英語が使われるようになってくると、長崎の大使館にいたオランダ通史は必要がなくなり、“暗厄利亜(アンゲリア)”は“英吉利(エゲレス)”と呼ばれるようになりました。
慶応三年(1867年)には、英会話の入門書“英吉利会話篇”が出版され、段々とアンゲリア呼びは息を潜め、代わりにエゲレス呼びが主流になり、これが現在の英語となっていくのです。
フェートン号事件
フェートン号事件
暗厄利亜(アンゲリア)語が翻訳されるようになった日本。
実はこういった外国語の翻訳が盛んになったのには、ある歴史的な出来事が関係しています。
ここからは、そんな外国語と触れ合うきっかけとなった“フェートン号事件”について紹介します。
フェートン号事件は、1808年にイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船と偽り長崎港に侵入した事件です。
オランダ商館員を人質にして食料や水を要求し、応じなかった場合は砲撃をすると脅しました。
これに日本とオランダ商館は、人質と引き換えに水や食料、牛などを渡します。
それらを受け取ったフェートン号は、入港の2日後に去っていったという流れがあります。
【経緯】
フェートン号が日本にやってきた経緯は、当時行われていたナポレオン戦争に由来します。
当時フランス側だったオランダと、それに対立していたイギリス。
イギリスは、東アジアにおけるオランダの商圏を奪うべく、各地に戦艦を派遣し拿捕を行っていました。
文化5年8月15日、フェートン号はそういったオランダ船の偵察のために日本に来航してきたのです。
報告を受けた長崎暴行の松平図書頭康英(以下、松平康英)は、湾内を警備をする佐賀藩と福岡藩に対して異国船の焼き討ち、抑留を命じます。
しかし、佐賀藩らの警備の規模が規定のたった2割まで削減していた事もあり、これに対処することができませんでした。
翌日16日、フェートン号は水、食糧、燃料を要求し、これをのまねば湾内の船を焼き払うと脅しました。
これを聞いた松平康英は激昂しますが、抵抗するだけの武装がない以上要求をのまざるを得ませんでした。
17日、奉行所は人質の解放と引き換えに食糧と飲料水などを与え、オランダ商館も牛や豚をフェートン号に渡しました。
そしてフェートン号は間も無く、湾から離れ去っていきました。
その夜、松平康英はその責任をとって切腹を遂げます。
フェートン号が武装していたことで相手側の要求に屈した見方が強いですが、それとともに、英語が理解できず交渉もままならなかったという言語的に不利だった側面もあります。
これがきっかけで、未知の言語である“暗厄利亜語(英語)”を理解するための辞書が編纂されていったのです。
“必要に迫られないと言語は身に付きにくい”ということにも通じる話ですね。
フェートン号事件も、一言で言えば、日本が言葉が通じない小国と舐められていたわけです。
言葉が通じない故に、武器で脅せば勝手が通ると思われた結果とも言えます。
佐賀藩が軍備を縮小した理由も、200年近くの間、湾周辺で大きな争いがなかったことに起因し、防衛能力の重要性に気付かされた出来事です。
結局、この後しばらくは異国船打払令などで対応しますが、その間に言語や外国の実情を学んだことからも、こういった経験が日本に大きな影響を与えたことは確かです。
こういった歴史の背景も、必要に迫られた結果ですね。
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