【前回記事】
この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書“韓非子”についてまとめていきます。
韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。
そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。
【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。
今回のテーマは“澹台子羽(たんだいしう)は君子の容(よう)なり”です。
澹台子羽(たんだいしう)は君子の容(よう)なり
【本文】
澹台子羽(たんだいしう)は君子の容(よう)なり。
仲尼(ちゅうじ)機して之(これ)を取る。
与に処(お)ること久しくして、行(こう)其(そ)の貌(ぼう)に称(かな)わず。
宰予(さいよ)の辞は、雅(が)にして文なり。
仲尼機して之を取る。
与(とも)に処(お)ちるに智(ち)其の弁に充(あ)たらず。
故に孔子曰わく、容を以て人を取りてや、之を子羽に失す。
言を以て人を取りてや、之を宰予に失す、と。
故に仲尼の智を以てして、而(しか)も実を失うの声(な)有り。
今の新弁は、宰予より濫にして、而も世主の聴(てい)は、仲尼より眩(くら)し。
其の言を悦(よろこ)ぶが為に、因(よ)りて其の身を任ぜば、則(すなわ)ち焉(いずく)んぞ失することなきを得んや。
是(ここ)を以て魏は孟卯(もうぼう)の弁に任じて、華下(かか)の患有り。
趙は馬服の弁に任じて、長平の禍有り。
此(こ)の二者は弁に任ずるの失なり。
【解釈】
澹台子羽(たんだいしう)は見た目や振る舞が君子のようだった。
孔子はそれをほめていた。
しかし長く付き合ってみると、行動がみかけに釣り合わないことが分かってきた。
また、宰予の物の言い方はすこぶる上品で美しかった。
孔子は期待してほめておった。
しかし、付き合ってみると口で言うほどの知識がないことが分かった。
そこで孔子は言った。
見かけで人をほめていたら子羽で失敗し、聞いた言葉でほめていたら宰予で失敗した、と。
つまり孔子の明智を持ってしても、人の芯の部分を見抜くことはできず、批評されるのである。
現代の弁論家は宰予にも増して上っ面だけである、しかも世の君主たちの耳は孔子よりも騙されやすい。
だから弁舌が立つからといってその人をその人を任用するなら、どうしても失敗するだろう。
そのために魏の君主は孟卯の弁舌を信じて華下の敗軍を招き、趙の君主は馬服の弁舌を信じて長平の敗軍を招いた。
この二つの事柄はともに、(証拠ではなく)弁舌を信じたために失敗したのである。
人は見かけによらぬもの
今回は、君主のような容貌や振る舞いをする澹台子羽を、孔子と言えども見抜くことができなかったという逸話ですね。
澹台子羽は孔子の弟子の澹台滅明(たんだいめつめい)のことです。
他の書では、“澹台滅明は容貌が非常に醜かったために、孔子は彼を愚鈍で才能に乏しいと思った”と書かれているものもあり、本節とは真逆のことが言われていたりもします。
この容貌の悪い澹台滅明は、後に出世をしたこという話しの落ちがあり、孔子が見た目で判断して失敗した例というのは共通しています。
後半は、実際に史実にあった魏や趙の戦いの失敗を挙げています。
特に、趙国に仕えていた馬服(趙奢:ちょうしゃ)については史記「廉頗藺相如列伝」にて記載があります。
列伝によると、長平の戦いにおいて廉頗に代わり馬服の子(趙括:ちょうかつ)が将軍となったと記されています。
しかし、趙括は父の兵書を読んだだけで実戦の経験に乏しく、将たる資質に欠けていました。
藺相如は、「彼では戦場に対応できないため、廉頗を据えるべき」と趙王に進言しましたが聞き入れてもらえませんでした。
その結果、秦の白起将軍との戦いに趙は大敗北を喫し、趙兵およそ40万が生き埋めにされ、趙の国力が一気に削がれることになったのです。
こういったことから、“孔子でさえ見た目や振る舞い、言葉だけでは人の本質を見抜くことができないのだから、その言葉と行動が一致しているかをしっかり見定めて人を選ばねばならない”と韓非は述べているのです。
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