皆さんコーヒーはお好きですか?
あの香ばしくも深みのある豆の香り。
口に広がる苦みと旨味のコントラスト。
私も毎日豆を挽いて味と香りを楽しんでいます。
皆さんは世界で初めてコーヒーカップを作った磁器工房をご存じですか?
世界で初めて磁器製のコーヒーカップを作ったのは“アウガルテン”だと言われています。
18世紀初頭にオスマントルコからコーヒーを飲む文化が輸入されてから、ウィーンではコーヒーブームが巻き起こります。
カフェ文化が根付いたウィーンでは、ティーカップを発展させ、コーヒーに合わせた磁器も考案されました。
これがコーヒーカップの始まりとされています。
今回は、そんな磁器を生み出したヨーロッパで2番目の磁器工房アウガルテンについてまとめていきます。
ウィーン磁器工房アウガルテン
アウガルテンは正式な名称を“ウィーン磁器工房アウガルテン”といいます。
ウィーン磁器工房という名にピンと来た方は鋭いです。
ウィーン窯はマイセンの歴史にて紹介した、ヨーロッパで二番目の磁器工房になります。
その歴史は大きく5つに分けることができます。
①デュ・パキエ時代
②マリア・テレジア時代(ロココ時代)
③新古典主義時代
④ビーダー・マイヤー時代
⑤アール・ヌーヴォー時代
です。
今回は、アウガルテンの立ち上げとなる歴史①デュ・パキエ時代と②マリア・テレジア時代を見ていきます。
①デュ・パキエ時代
デュ・パキエ(クラウディス・イノセンティウス・デュ・パキエ)は、神聖ローマ帝国皇帝カール6世に仕えた宮廷軍事局のエージェントです。
カール6世は当時“白い金”と呼ばれた磁器(白磁)を、自らの領内でも作ることができないかと考えました。
彼は、諜報活動をこなすエリート中のエリートのであるパキエに対し、これに対処するよう命じます。
パキエは、25年の間領内での磁器製造の独占権と引き換えに、製磁技術を手に入れることを約束します。
マイセン窯の磁器の製造技術を我がものとすべく画策します。
パキエは、マイセン窯の賃金事情や労働環境を引き合いに出し、マイセンの絵師の一人クリストフ・フンガーをスカウトします。
しかし、フンガーだけではマイセンの製磁技術を再現することはできませんでした。
そこで彼は、高額の報酬を条件にベテランであるサミュエル・シュテルツェルを引き抜くことに成功。
この際、マイセンの製磁技術とカオリン(磁器の材料)の仕入れルートを確保し、ウィーン窯で製磁が可能になりました。(1718年頃)
1720年にはプリンツ・オイゲン、シノワズリのモデルを完成させます。
プリンツ(プリンス)・オイゲンは、神聖ローマ帝国ハプスブルク家の発展に貢献した、オイゲン公に向けて作られたモデルです。
シノワズリは、模様もプリンツ・オイゲンとほぼ同じであり、色違いモデルと捉えることができます。
ウィーン製の磁器には、花々、神話、ヨーロッパの風景が描かれ、その豪華な装飾はたちまち評判になりました。
にもかかわらずウィーン窯は経営不振に陥ります。
理由は、大量生産に不向きだったからです。
非常に人気の高かったモデルを生産しようにも、一点物をひとつずつ手作りしていた当時はとても手間のかかるものでした。
シュテルツェルも、製磁の技術は持ってこれど、大量生産をする技術までは持ち合わせていませんでした。
これにより、予想していたような利益が出せず、シュテルツェルやフンガーをはじめその他の陶工達に約束した報酬を支払うことができませんでした。
こうしてウィーン窯からフンガー、シュテルツェルらの陶工が去り、窯の勢いが衰えていくことになります。
経営の立て直しも叶わないまま25年の契約も切れます。
その結果、ウィーン窯は帝国へ売却され、デュ・パキエ時代も終わりを迎えることになります。
②マリア・テレジア時代
工房が帝国下にある頃、運営の実権は女帝マリア・テレジアにありました。
芸術好きな彼女は、自国の磁器工房を復活させるべく資金をつぎ込みます。
この工房はハプスブルク家直属の工房として“インペリアル・ウィーン磁器工房”として息を吹き返します。
この際、工房で作られる製品にハプスブルク家の象徴である“盾の紋章”を刻印することが許され、今でも続くアウガルテンのロゴとして残ることになります。
この頃に作られた代表的なモデルが、“オールドウィンナーローズ”、“マリア・テレジア”です。
オールドウィンナーローズは、愛の象徴であるバラと誠実の証であるつぼみが描かれ、ハプスブルク家のみが使用できるディナーセットとして作られました。
マリア・テレジアモデルは、アウガルテン宮殿(狩猟の館)の完成記念として寄贈され、ウィーン窯の窮地を救ってくれたマリア・テレジアに向けて作られたモデルです。
絵柄は緑で統一され、バラ、犬バラ、スミレ、スイセン、ヒナギク、ストローフラワーがそれぞれ描かれています。
またこの頃になると、オーストリアの継承戦の煽りを受け、オーストリアのテレジア、フランスのポンパドゥール、ロシアのエリザヴェータと共に反プロイセンへと動きを進めていきます。(後の7年戦争)
磁器文化においては、ルイ15世の愛人として権力を握っていたポンパドゥール夫人の影響を強く受け、女性的な曲線美を有する“ロココ様式”が取り入れられていきました。
アウガルテン(インペリアル・ウィーン磁器工房)は、マリア・テレジアが1780年にこの世を去るまで、宮廷お抱えの窯として技術を磨いていきました。
まとめ
・デュ・パキエによって、ヨーロッパで2番目の磁器工房として誕生
・パキエの後にマリア・テレジアが工房を引き継ぐ
・テレジアの庇護の下でアウガルテンが発展していった
マイセンに次いで古い歴史を持つウィーン窯アウガルテン。
歴史を紐解くと、由緒ある窯であることが見えてきますね。
アウガルテンという名前がつけられるのはここからまだ先の話ですが、もしテレジアが目を掛けなかったら、現在のアウガルテンがあったかどうか怪しいです。
実際、ハプスブルク家お抱えの窯として存続していたという点も大きく、ビジネスとして見ると採算性は無かったと言われています。
テレジア亡き後は、窯を民間に売却しようという動きもあり、儲けのために作られた窯ではなかったことが分かります。
この続きに関しては次回記事にてまとめていきます。
では今回はこの辺にて!
【次回記事】
コメント