第18王朝ファラオであるアメンホテプ4世。
アクエンアテンを名乗りエジプトに君臨した王です。(以降アメンホテプ4世をアクエンアテンと記す。)
アクエンアテンとは“太陽神アテンに有益な者”を意味し、その名の通りアテン神を篤く信仰していました。
アテン神(たち)についてはコチラの記事を参考。
アマルナ改革
前回紹介したトトメス3世をはじめ、各王朝のファラオは国外遠征を積極的に行い、領土や資源を獲得していきました。
征服を行う際、兵士たちは首都テーベの主神であるアメン神を崇拝していました。
それに伴い、勝利の証として多くの貢物がテーベのアメン神に向けて送られていました。
このしきたりが続いた事によってアメン神殿の神官(アメン神官)たちは徐々に富を蓄え、遂にはファラオの継承問題など内政に口を出すまでになっていました。
アクエンアテンは、力を増していくアメン神官団によって王権が脅かされることを危惧し、王権と宗教の統一を実行します。
多神教から一神教へ
まずアクエンアテンは、首都をテーベからアケト・アテン(現アマルナ)に移します。
テーベの主神であるアメン神への信仰心を薄くさせ、アメン神官団を弱体化させる狙いがありました。
さらに各地の神殿や墓からアメン=ラーの名前と図像を削り取り、信仰の対象をアテン神にするよう命じます。
多神教であったエジプト宗教が、唯一神アテンのもとに一神教に変わったのです。(アマルナ改革)
この改革は宗教観に変化をもたらしただけでなく、アマルナ美術など芸術文化をうみ出しました。
それまでの横向き平面な絵から、人間には表情がリアルになったり、肉感を感じられるように描かれるようになります。
その最たる例が、アクエンアテンの妻のひとりの彫刻ネフェルティティの胸像です。
しかし長らく浸透していた多神教文化からの急激な改革に、国民たちは上手くついていけませんでした。
長らく信仰されていた地域ごとの神々を否定された国民たちは不満を募らせていきました。
結局アクエンアテンの死に伴い、このアテン信仰は終わりを迎えます。
次のファラオ“トゥトアンクアメン”によってアテン信仰は廃止され、アマルナ文化は徐々に薄れていったのです。
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