の続き…。
前回のコペルニクスに続き、地動説の立役者であるガリレオ・ガリレイ (ユリウス暦1564年~グレゴリオ暦1642年) についてのまとめになります。
ガリレオ・ガリレイ
それでも動いている…。
ガリレオは複合顕微鏡の開発や木星の衛星の発見、世界初の振り子時計の設計など近代科学の発展に寄与した人物でもありました。
彼が唱えた慣性という物理的概念は、アイザック・ニュートンが運動法則を発見するきっかけになりました。
中でも彼の最大の功績は、天動説が教会の教えとなっていた時代に地動説を唱えたことです。
コペルニクスの時代から相変わらず地動説は異説であり、それを唱えることは教会への反逆と捉えられていました。
ガリレオは、自身が著した“天文対話”にて、地動説では説明できない太陽の見え方や潮の満ち引きについての見解をまとめ、コペルニクスを擁護しました。
これによりガリレオは宗教裁判(異端審問)にかけられます。
当時69歳だった彼は高齢で身体も衰弱していました。
何とかフェルディナンド2世(メディチ家)の計らいで裁判を延期させるも、教皇の圧力には逆らえず異端審問所へ出頭することに。
裁判にて教会の教えに背き天文対話を出版した意図を尋問され、その結果有罪。
ガリレオは投獄されることになってしまうのです。
しかし教会にはガリレオを擁護する声も多数あり、ガリレオの有罪を認めた裁判官は10人中7人だったといいます。
処刑を免れたのもガリレオ擁護派の動きもあってのことだろうと思います。
ガリレオに判決下され異端聖絶を行った直後、彼は「Eppur si muove(それでも動いている)」とつぶやいたそうです。
本来であれば異端聖絶後にそれを覆すような言葉を言ったとなれば、裁判のやり直しや処刑もあり得ましたが、それすらもなかったとなるとガリレオの影響は当時からも計り知れないものだったのでしょうね。
豆知識
・生没の暦の違いについて
1582年に、旧暦であるユリウス暦から新暦であるグレゴリオ暦に変わったことで、生没に両方が記載されています。
(ユリウス暦とグレゴリオ暦については、サラエボ事件(後編)にてまとめアリ。)
・400年越しの名誉回復
1983年、カトリック教会はガリレオを裁いた宗教裁判は誤りであると発表。
1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世はガリレオに対するすべての告発を公式に取り消し謝罪しました。
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旧新暦繋がりのサラエボ事件も、名前を知っているだけで終わらせるがもったいない出来事ですので、前後編ともみてくれると嬉しいです!
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