の続き…。
1870年7月、フランス帝国涙の宣戦布告の末、遂にフランスVSプロイセン(ドイツ連邦)による普仏戦争が勃発します。
普墺戦争から4年後の出来事でした。
やはり準備ができている男、モルトケ
準備はできています。
普墺戦争にて鉄道と電信を駆使し、プロイセンを大勝利に導いた男モルトケ。
来たるの普仏戦争に向けて、鉄道網を更に増強。
輸送できる兵力や物資の量は、1866年時の普墺戦争のおよそ4倍にもなっていました。
プロイセンを中心とした同盟はより強固になっていましたが、大国であるフランスを打倒するにはかなりの準備が必要と感じていたようです。
普仏戦争開戦
まずは勝利!このままプロイセンを押し切る。
開戦当初、フランス軍が国境沿いのザールブリュッケンを占領し、優勢とみられていました。
当時フランス軍が採用していたシャスポー銃は、プロイセン軍が採用していたドライゼ銃の3倍の射程があり、一方的に攻撃することができました。
フランスの工業技術からすれば、プロイセン軍のドライゼ銃は既に時代遅れになっていたのですね。
列強諸国も、国力も兵力もプロイセン側より上であるフランスの勝利に終わるかと予想していました。
しかし、このザールブリュッケンの勝利はフランス軍の最初で最後の勝利となりました。
同盟軍、フランス帝国を圧倒
今こそプロイセン王国の工業力を見せるとき。
開戦当初の敗北以降、スピシャランの戦い、フシュヴィレール=ワシュの戦いなど、各地の重要な局面にて次々勝利していくプロイセン(ドイツ同盟)軍。
ザールブリュッケンは劣勢を強いられていた同盟軍が、なぜこうも大国フランスを圧倒できたのでしょうか…?
それはプロイセンが着々と進めてきた近大工業化にありました。
クルップ社以外の大砲など考えられない。
後に今世に渡って続くドイツの一大企業となるクルップ社。
社長のフリードリヒ・アルフレート・クルップは、独自の鋳鋼加工によって、継ぎ目のない車輪や武器の製造など他国にはない技術を駆使し、母国プロイセンを支援しました。
その中でも特に活躍したのがクルップ砲です。
当時フランス軍の大砲は、最低限の耐久力で運用できる“青銅”で作られていました。
それに対しこのクルップ砲は、高強度であるが当時は非常に加工が難しかった“鋼鉄”で作られていました。
鋼鉄で作られたクルップ砲は、詰めることができる火薬の量も、発射できる砲弾の大きさや威力も、戦闘継続性もフランス軍のそれとはケタ違いでした。
クルップは、
もし他の社の大砲を受注しようものなら、私の大砲を全世界に売りつけることになりますぞ。
と豪語するほど、自分の会社の鋳鋼技術に自信を持っていたようです。(この言葉は後に彼が大砲王と呼ばれるきっかけになりました。)
また、モルトケが整備していた鉄道網によって、戦場に素早く配備することができたことも、プロイセン軍連戦連勝の理由でした。
次回はいよいよ最終回。
普仏戦争の決定打となるセダン(スダン)の戦いにてビスマルク編の幕を閉じたいと思います。
最終回:遂に統一!ドイツ帝国の誕生
ちょこっとフランス軍
因みにフランス軍も秘密兵器ミトラィユーズ機関銃を実戦配備していました。
しかし秘密にされすぎたせいで、扱える兵士がおらず、開戦ギリギリの配備だったことや配備当初から劣勢を強いられていたことから、ミトラィユーズの訓練もままならないまま戦場へ…。
結局、有効な使い方をされないまま終わってしまう悲しい兵器でもありました。
第一次世界大戦では、悪鬼のご如く活躍する機関銃という兵器ですが、この戦いで有効な使い方をされていたら、また戦況は大きく変わったていたかも知れません…。
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