の続き…。
詩や文学、音楽の才能に溢れた青年期を過ごしたニーチェ。
母や妹、従者達など女性に囲まれて育った彼は、流行の最先端を行くようなお洒落な服を着る一面もあったそうです。
そんな家庭で育った彼は恩師をはじめとする多くの出会いによって、そして人生の終わりにかけて少しずつニーチェ哲学が形成されていきます。
今回は彼の人生の後半に焦点を当てていきます。
バーゼル大学時代
1869年ニーチェが24歳の頃、彼はスイスのバーゼル大学教授になります。
まだ教員資格すら持っていませんでしたが、リッチュル教授の強い推薦により異例の大出世を果たしました。
ちなみにバーゼル大学に行くにあたり、スイス国籍を取得しようとしたニーチェ。
プロイセン国籍を放棄し、洗礼で授かったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの“ヴィルヘルム”も名乗らないようになります。
しかしその後スイス国籍を取得していなかったため、以降のニーチェは生涯無国籍として生きていくことになるのです。
バーゼル大学では哲学科の講師を希望していましたが、古典文献学を担当するようになります。
最初こそ自分にも他人にも厳しい姿勢が話題になりましたが、出版した本が難解だったことや他の文献学者から批判を浴びたことによって生徒は激減。
悪評が悪評を呼び、最後は片手で数えられる程度の出席者しかいなくなったといいます。
蝕まれる身体
この頃になるとニーチェの身体は慢性的な病気に苦しむようになっていきます。
1870~71年まで行われた普仏戦争では看護兵として従軍しましたが、その際に赤痢とジフテリアに罹ってしまいます。
さらに学生時代に売春宿で梅毒にかかっていたこともあり、20代にして病に苦しむ身体になっていたのです。
ニーチェの病気は彼の人生を大きく変えるものになっていきました。
1876年ワーグナーによる“ニーベルングの指環”の初演が行われます。
ワーグナーの支援者(パトロン)あるバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世などの各国の国王や貴族が赴く劇場にニーチェも訪れました。
第一幕が終わるとニーチェは吐き気を催し劇場を後にします。
彼はこの吐き気をただの吐き気とは思いませんでした。
なにか心の内側からくるもの…“ワーグナーの傲慢さからくるもの”と感じたのです。
貴族たちと戯れる姿を見せつけられた彼は、劇で陶酔するのも結局はワーグナーによって作られたものをただ見せられているだけであると気づきます。
かつてのワーグナーの情熱を感じられなくなってしまったのです。
この演目以降ニーチェとワーグナーの関係は途切れてしまいました。
療養と執筆の期間
1879年を過ぎた頃、彼は突発的に現れる激しい頭痛に悩まされるようになります。
大学での仕事もままならなくなり、およそ10年の期間をもって教壇を降りることになります。
その後ニーチェは療養のために夏はスイス、冬はイタリアと居場所を転々としながら病気と闘っていくのです。
ニーチェの著作の多くはこの療養期間に書かれたものです。
1882年ニーチェが恋い焦がれる女性、ルー・アンドレア・ザロメと出会います。
ニーチェの友人であるパウル・レーの紹介で彼女と知り合い、その年は三人で旅行に出かけるなど親睦を深めていきます。
ある時ニーチェはザロメに求婚を申し出ますが、ザロメは「私は誰とも結婚するつもりはない」と求婚を断ります。(妹のエリーザベトがザロメとニーチェの仲を引き裂くために、裏で手を引いていたともいわれています。)
同じ時期にレーもザロメに求婚しますが、同じ返事だったそうです。
しかしあるときレーとザロメはニーチェの元を離れ、二人で同棲しはじめます。
ニーチェは自分が捨てられたことに気づき、深い自己嫌悪に陥ります。
この時期に書かれた手紙は「私を見る人は皆、私を軽蔑している…。」「今度の出来事は人生の中でも屈辱的で拷問的だ…。」といった悲観的なものばかりでした。
この頃、そういった精神状態を安定させるかのように書き上げたのが“ツァラトゥストラはこう言った(第一部)”だったのです。
コメント