この記事では、ジャン・ジャック・ルソーが著した“エミール”から、子育てや生活に役立つような言葉を抜粋して紹介していきます。
“子どもは子どもの教育が必要である”と考えたルソーの考えを、1記事に3つずつまとめていきます。
またそれらの言葉がこの本の要約にもなるので、よろしければ参考までにどうぞ!
「世間のしきたりを十分に理解するのに適した時期がある。」
学問の研究にふさわしい時期があるのと同様に、世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期があり。
あまりに若い時にそういうしきたりを学ぶ者は、一生のあいだそれに従うことになる。
そういうものは、選択することもなく、反省することもなく、自信は持っていても、自分がしていることを十分に知ることもない。
しかしそれを学び、さらにその理由を知る者は、もっと豊かな見識をもって、もっと適切な、優美なやり方でそれに従うことになる。
「二十歳の青年を世間に出してやるといい。」
無闇に詰め込んだ教育を施されたあなた方の生徒の知識は、単に記憶のうちにあるだけだ。
私の生徒の知識は判断力のうちにあることだろう。
同じように二十歳の青年を世間に出してやるといい。
よく導かれるなら、私の生徒は一年後には子どものときから世間で育てられていた者よりいっそう好ましい、いっそう的確に礼儀正しい青年になるだろう。
私の生徒(判断力のある生徒)は、世間のしきたりになっている、年齢、身分、性に応じてあらゆる礼儀作法の理由を感じ取る能力がある。
それを原則に還元し、思いがけないことに出会った場合にそれを拡張することができる。
対してそうでない子は、習慣を規則にしていいるだけなので、習慣に外れたことに出会うとすぐに当惑してしまう。
「あまり遅くまで待っていてもいけない。」
あまり遅くまで待っていていもいけない。
青年時代を通じて華やかな社交界から遠く離れていた者は、その後一生の間、そういうところへ出ると当惑したぎこちない様子を見せる。
いつもその場にふさわしくいない話をし、重苦しい不器用な態度を示す。
絶えず社交界に顔を出すようになっても、それを改めることができず、それをなくそうと努力すればさらにおかしなことになるだけだ。
まとめ
今回は学びの時期についての話でしたね。
大人の社会について、必要のない時期から無理やり詰め込んだ結果、知識ばかりで判断力の乏しい人間に育ってしまうと主張しています。
実際に詰め込みで判断力が乏しくなるのかは、良い意味でも悪い意味でも画一された現在の教育制度では確認のしようがありません。
しかし現在の教育と共通して言えることは、幼い頃の習慣や認識によって、その後の振る舞いや認識が変わっていくということです。
子どもの頃に、与えられた課題をただひたすらこなすことを習慣にすると、大人になってからその認識を変えるのはかなり大変です。
課題の量に耐えることは忍耐力を鍛える上では大切ですが、それだけで良しとするのでは勉強が嫌いになってしまいます。
どうすれば量をこなさずに課題をクリアできるのか……、どうやったら前向きに課題に取り組めるのか……、そういうことを考える力を伸ばす教育が望ましいと考えています。
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