私たちは「睡眠不足だと頭が働かない」と感じることがありますが、その根本的な理由が今回はじめて分子レベルで明らかになりつつあります。
2026年1月にPNASに掲載された最新研究では、慢性的な睡眠不足が脳の神経細胞を守る脂質構造「ミエリン」そのものにダメージを与え、神経伝達や認知・行動機能に悪影響を及ぼす可能性が示されました。
研究はイタリアのカメリーノ大学を中心に国際的なチームが実施した、ラット実験とヒトデータを用いたものです。
以下に研究の内容をまとめます。
参考記事)
・Sleep Loss Is Physically Damaging Your Brain Cells, Study Suggests(2026/01/31)
参考研究)
・Sleep loss induces cholesterol-associated myelin dysfunction(2026/01/20)
睡眠不足により「ミエリン」の構造と機能が損なわれる

ミエリン鞘は、ニューロンの軸索を取り巻く脂質性の保護被膜であり、電気信号を高速で伝えるための「絶縁体」として不可欠です。
睡眠不足がこのミエリンの厚さや機能に影響を与える可能性が、今回の研究の中心的な問いでした。
研究チームはまず、健康な成人185人分の脳MRIを解析し、睡眠の質を測る指標であるPittsburgh Sleep Quality Index(PSQI)と白質(ミエリンなど脂質性線維が多い領域)の統合性を比較しました。
その結果、睡眠の質が低い人ほど白質の構造的統合性が低い傾向が確認され、良好な睡眠と白質の健全性には強い関連があることが裏づけられました。
次に、10日間にわたり睡眠不足を与えたラットの脳を解析しました。
その結果、軸索自体の太さに大きな変化はない一方で、ミエリン鞘の厚さが明確に薄くなっていることが示されました。
これは、睡眠不足が神経細胞の被覆を物理的に損なっている可能性を示す重要な証拠です。
神経伝達の遅延と情報同期の低下
ミエリン鞘が薄くなると、電気信号の伝達速度が遅くなりやすくなります。
研究チームは実際に、電気刺激による信号伝達の遅延を測定しました。
その結果、睡眠不足ラットでは信号伝達の遅延が顕著に増加し、左右脳半球間の信号同期も低下することがわかりました。
このことは、高速な情報伝達が損なわれ、認知・運動機能に悪影響が及んでいる可能性を示しています。
重要なのは「コレステロール代謝の乱れ」

今回のPNAS論文の注目すべきは、こうした構造的・機能的変化と同時に、オリゴデンドロサイト(ミエリン形成細胞)のコレステロール代謝が乱れていることが示された点です。
オリゴデンドロサイトは、ミエリンの主要構成成分であるコレステロールを取り扱ってその被膜を形成・維持している細胞です。
研究では、睡眠不足によりこれらの細胞でコレステロールの恒常性(homeostasis)が大きく乱れ、脂質代謝全般に異常が生じていることが示されました。
こうした異常は、単なる疲労による一時的な神経機能低下ではなく、ミエリン構造そのものの品質や機能を直接損なう可能性があるという、極めて重要な示唆を与えています。
研究チームはさらに、ミエリン機能改善を試みるために、コレステロール輸送を促進する薬剤(シクロデキストリン)を使用しました。
その結果、睡眠不足ラットにおいて運動能力や記憶課題の成績が改善することが確認されました。
これは、ミエリンのコレステロール代謝異常が神経伝達機能の低下と行動障害に直結している可能性を示す重要な証拠です。
ただし、本研究の大部分はラットを用いた動物実験であり、ヒトにおける因果関係の直接証明は今後の課題です。
ヒトのMRI解析では関連性が確認されていますが、遺伝子・細胞レベルで同じメカニズムが進行しているかどうかは確定していません。
この点はまだ科学的に完全に解明されたわけではないため、慎重な議論が必要です。
睡眠は単なる「休息」ではなく脳の構造維持に必須

今回のPNAS論文が示している最も重要な示唆は、睡眠が単に脳を休ませるための生理現象ではなく、脳の構造そのものを維持・修復するために不可欠な役割を果たしている可能性があるという点です。
これまで睡眠不足による影響は、集中力の低下や注意散漫、眠気といった「機能的な問題」として語られることが多く、脳細胞の物理的な変化にまで踏み込んだ議論は限定的でした。
しかし本研究では、神経細胞を覆うミエリン鞘という具体的な構造が、睡眠不足によって実際に薄くなり得ることが、動物実験を通じて明確に示されました。
ミエリン鞘は、神経信号を高速かつ正確に伝えるための絶縁体のような役割を果たしており、その劣化は、脳全体の情報処理効率を根本から低下させる可能性があります。
さらに注目すべき点は、この変化が神経細胞そのものの死や破壊によるものではなく、オリゴデンドロサイトにおけるコレステロール代謝の異常という、比較的可逆的で調整可能な生物学的プロセスと関連している可能性が示されたことです。
これは、睡眠不足による脳機能低下が「避けられない損傷」ではなく、適切な介入や睡眠改善によって回復し得る余地を残していることを意味します。
一方で、本研究の中心的な証拠はラットを用いた動物実験に基づいており、人間において同一の分子メカニズムが同じ程度で進行しているかどうかについては、現時点では確定していません。
ヒトのMRI解析では、睡眠の質と白質構造の健全性との関連が示されていますが、オリゴデンドロサイトの機能低下やコレステロール代謝異常を直接確認したわけではありません。
この点は、今後の縦断研究や臨床研究によって慎重に検証される必要があります。
それでもなお、今回の研究は、慢性的な睡眠不足が一時的な不調にとどまらず、脳の配線そのものの効率や精度を長期的に損なう可能性を示唆しています。
まとめ
・睡眠不足はオリゴデンドロサイトのコレステロール代謝を乱し、ミエリン鞘の構造と機能を損なう可能性が示された
・その結果、神経伝達の速度低下や信号同期の欠損が起き、行動・認知機能に影響する可能性がある
・今回のデータは主に動物モデルに基づくため、人間への完全な因果関係解明にはさらなる研究が必要

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