【前回記事】
チャールズ・ダーウィンの生い立ち
チャールズ・ダーウィンは1809年2月12日、イギリスのシュルズベリーにて生を受けました。
医師だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナの間に産まれた6人兄妹の4番目の子(次男)で、チャールズが8歳の頃に母スザンナは他界しています。
父が開業医な上、投資家としても成功を収めていたことから裕福な生活を送りながらも、父や3人の姉からは厳しく育てられました。
幼いころのチャールズはというと、果樹園からりんごやプラムを盗んで逃げ回るようなわんぱく小僧で、銃を持てるようになってからは鳥を狩ることを好んだようです。
また、鳥の卵や貝殻、鉱物やコインなどの収集が趣味で、身の回りのものをコレクションしながら比べることを楽しんでいました。
子どもの頃から大人顔負けの収集家だったチャールズですが、それも彼の家系の影響が少なからず感じられます。
というのも、父ロバートの祖父はエラズマス・ダーウィンというイギリスで有名な医師で、『ズーノミア』や『自然の神殿』など生物学についての著作でも有名な人物でした。
“evolution(進化)”という言葉を生物学に持ち込んだのもエラズマスで、当時支配的だった「神が生命を創り上げた」という宗教観に立ち向かった科学者でもあります。
また、母スザンナの祖父は、イギリスの陶磁器メーカー『ウェッジ・ウッド』の創始者であるジョサイア・ウェッジウッドです。
実業家としても成功したジョサイアは、後世に轟く功績とともに莫大な遺産を残しており、ジョサイア家、ダーウィン家ともに余裕のある生活を送る基盤を作っていました。
このように家系が科学者や実業家の成功者だったことから、チャールズ(以下ダーウィン)は自宅の道具小屋を実験室に改造し、兄とともに科学実験を行う日々を過ごしていました。
一方、シュルズベリーの学校で学ぶ内容は彼にとって退屈なものだったようで、「どんな詩も丸二日の後には忘れている。こんな勉強はまったく何の役にも立たなかった。」と振り返っています。
その態度は成績にも反映され、校長先生から全生徒の目の前で罵倒されたり、父から厳しく叱責されていました。
また、実験で独自に化学的なガスを発生させていたことから、学校でダーウィンは「ガス」というあだ名で呼ばれていたようです。
彼が16歳になった頃の秋、ダーウィンの将来を心配した父は、ダーウィンを医者にさせるため、父と祖父の母校でもあるエディンバラ大学へ入学させました。
エディンバラ大学に入学するも……
しかし、大学の勉強でさえも価値を見出せなかったダーウィンは、学校の講義以外の場に喜びを見出していきます。
彼が大学で得たもの、それは「地質学の教科書は、今後何があっても読むことはないだろう」という決意でした。
そんなダーウィン心の拠り所だったのは、大学内に併設されていた自然博物館でした。
イギリス海軍が世界各地から収集した生物の標本が集まっており、海を渡ることが容易でなかった当時、彼にとっては空想の世界のようでした。
彼がそこに出入りするようになる中で、ある時、生物学者のロバート・グラントに出会います。
グラントはダーウィンに対し、カイメン類やウミウシ類など生物の採集方法を教えたり、生物学会の定例会に参加させたりと非公式の先生となっていました。
学会で行われるフィールド探索やレベルの高い論争を体験したダーウィンは、自ら海洋生物の観察を行い、牡蠣の殻に付着しているものが「ウミビル」という生物の卵であることを解明したりしていました。
この研究発表もエディンバラ大学時代のことであり、彼は生物学の基本をグラントのもとで身につけていくことになります。
また、専攻である医学の勉強においては、麻酔のない手術で患者が苦しむ姿や出血の様子に卒倒する始末で、挙げ句の果てには実習から逃げ出すほどでした。
「息子が医者になってくれるかもしれない」という父の微かな願いはことごとく打ち砕かれていくのでした。
関連動画
ジョサイア・ウェッジウッドの歴史と一緒に、エラズマス・ダーウィンなどの関係にも触れている動画です。
参考までにどうぞ!
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