【前回記事】
この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書“韓非子”についてまとめていきます。
韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。
そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。
【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。
今回のテーマは“和子(かし)の璧(たま)”です。
和子の璧
【本文】
楚の人和氏(かし)、玉璞(ぎょくはく)を楚山の中(うち)に得、焙じて之を厲王(れいおう)に献す。
厲王玉人(きゅうじん)をして之を相せしむ。
玉人曰わく、石なり、と。
王、和を以て誑(きょう)と為して、其の左足を刖(あしき)る。
厲王薨(こう)じて、武王位に即(つ)くに及(およ)び、和又其の璞を奉じて之を武王に献ず。
武王、玉人をして之を相せしむ。
又曰わく、石なり、と。
王、又和を以て誑と為して、其の右足を刖る。
武王薨じて、文王(ぶんおう)位に即く。
和乃(すなわ)ち其の璞を抱きて楚山の下に哭(こく)すること、三日三夜、涙尽きて之に継ぐに血を以てす。
王之を聞き、人をして故を問わしめて曰わく、天下の刖らるる者多し、子奚(なん)ぞ哭することの悲しきや、と。
和曰わく、吾(われ)刖られしを悲しむに非ざるなり、夫(か)の宝玉にして之を題するに石を以てし、貞士にして之に名(なづ)くるに誑を以てせらるるを悲しむ、此れ吾が悲しむ所以なり、と。
王乃ち玉人をして其の璞を理(おな)めしめて、宝を得たり、遂に命(なづけ)けて和氏の璧(かしのたま)と曰う。
夫れ珠玉は、人主の急にする所なり。
和、璞を献じて未だに美ならずと雖(いえど)も、未だ主のの害と為らざるなり、然(しか)も猶(な)お両足斬られて、而して宝乃ち論ぜられる、宝を論ずるすら此(かく)の若(ごと)く其れ難し。
今、人主の法術に於(お)けるや、未だ必ずしも和璧のごとく急にして、群臣市民の私邪を禁ぜざるなり。
然らば則ち有道者の僇(りく)せられざるは、特(ただ)帝王の璞、未だ献られざるのみ。
【解釈】
楚の和氏(かし)という人物が山で璞という宝玉を見つけて、厲王に献上した。
厲王は玉造りに命じて目利きさせると、玉造りは「ただの石です」と言った。
厲王は和氏を謀(たばか)り者と怒り、左足を斬ってしまった。
厲王が死に武王が即位すると、和氏は再び璞を王に献上した。
武王が玉造りに命じて目利きさせると、玉造りはまた「ただの石です」と言った。
武王は和氏を謀り者と怒り、右足を斬ってしまった。
武王が死に文王が即位した。
すると和氏は、璞を抱いて楚山のふもとで三日三晩声をあげて泣き、ついには血の涙を流すほどだった。
文王はそれを聞き、使いの者をやって訳を聞いた。
使いの者は「世の中には足斬りの刑に処される者は多くいる。なぜお前はそんなに悲しんでいるのか」と聞いた。
和氏は「足を斬らたことを悲しんでいるのではありません。宝玉であるはずの璞が石と決めつけられ、謀り者と呼ばれたことを悲しんでいるのです」と答えた。
それを聞いた文王は璞を和氏から受け取り玉人に磨かせてみたところ、本当に宝玉だったことが分かった。
王はその宝を“和氏の璧”と呼んだ。
そもそも宝玉は世の君主たちの欲しがる物である。
そして、和氏が璞を王に献上してそれが美玉ではないと判明しても、君主は何も損はない。
しかし、和氏は両足を斬られてから、やっと宝玉を問題にしてもらえたのである。
宝玉ひとつ取り上げて問題にしてもらうのさえ、それほど難しいのである。
そして、今の君主たちは、法と術とで国を治めようと言う説に対しては気乗りが薄い。
今のところまだ真の政治の道を志心得た者があまり刑罰に遭わずにいるのは、彼ら抱いている璞(法や術を重んずるべきという政策)を、君主に献上できないからである。
優秀な者の主張であっても、相手によっては通じない
和氏の璧の伝承から、法に長けた士が君主に認めてもらうことの難しさを説いています。
聞き分けの良い王でないか限り、正しき道を示しても怒りを買うだけで本質的な話にはならないという嘆きも含まれています。
能の無い側近たちによってその人が悪者扱いされ糾弾された後、やっとのことで良き君主に変わってからやっと物の本質が議題に挙がったということですね。
ちなみに璞は掘り出したままの磨いていない原石で、玉人がその璞を磨いたりすることで玉が石かを見分けます。
またこの話は、文王が共王になっていたりと文献によって人物が少し変わったりもするので、その辺はご了承ください。
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