【前回記事】
前回、シュテルツェルがマイセン窯に戻ってきた際、絵付け師としてヘロルトを連れてきたところから紹介しました。
ヘロルトの登用によって、マイセンの絵付け技術は飛躍的に向上し、王侯貴族からの評価も高まっていきます。
今回は、絵付け技術に加えて、成形技術の発展についてのお話しです。
成形師ケンドラー
ベトガーが窯を立ち上げ、ヘロルトが絵付け技術を確立したことによってマイセンの技術はヨーロッパ随一のものとなっていきました。
マイセンを語る上でこの二人の他にもう一人知らなければいけない人物がいます。
それが成形師ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーです。
当時マイセンで成形を担当してのは、彫刻家であるキルヒナーでした。
ケンドラーは、ヘロルトがマイセンに来てからおよそ10年後、キルヒナーのアシスタントとして招かれました。
この頃のマイセンは、様々な表現方法を取り入れるため、各所から美術に造詣が深い人物を招いていました。
ケンドラーもその中の一人です。
アウグスト強王は、長年思い描いていた磁器の宮殿を造ろうと考えていました。
その宮殿内を磁器で作った動物達で飾ることを考えていた王は、あるときケンドラーの作品と出会います。
躍動感あふれるケンドラーの作品に、王はまさに夢の宮殿を飾るにふさわしいと考えました。
ケンドラーの登用を機に、マイセンはテーブルウェアから人形の造形技術に力を入れるようになります。
ケンドラーは王の要求通り、次々に人形を作成し、王を大いに喜ばせました。
そんな中1733年2月、アウグスト強王は旅先で病に倒れ、磁器の宮殿の完成を見ることなくこの世を去ってしまいます。
その後、マイセン窯は家臣であるブリュール伯爵に任せられることになります。
伯爵自身もケンドラーの作品の評価が高く、彼はマイセン窯での重要な人物と評されるようになっていきました。
生前の強王はドラマチックで力強いバロック様式を好み、ケンドラーもに近い人形を作っていきました。
強王亡き後、ケンドラーは作風を変え、女性的で繊細さのあるロココ様式を好んで作るようになっていくなど、王の死を境に作風に違いが出てきます。
その頃から作られたのが“天使シリーズ”を代表とした人形です。
ケンドラーとヘロルトの対立
モデルマイスター(巨匠)となりゆくケンドラーにはマイセン工場内での裁量が与えられ、幅を利かせるようになっていきます。
それを良く思わないのがヘロルトです。
それまでヘロルトの絵に合わせるようにシンプルな形を作ってきた職人たちは、ケンドラーの指導のもとで自由な造形を試すようになっていきました。
「彩色は最小限。形で勝負」としていたケンドラーの作品に対して、ヘロルトが自らの彩色を施していくなど、両名芸術家として意地の張り合いが続くことになります。
ケンドラーは、弟子たちのアイデアを取り入れてオリジナルを作り出す革新派。
ヘロルトは、それまで培ってきた技術を最大限表現する保守派としての位置付けがあったように感じます。
ある意味このバランスも弟子たちにとっては良い刺激になり、弟子たちのもマイセンならではの才能を伸ばしていくことになります。
その中の一人としてフランスから招かれたアシエも存在し、後にケンドラーと並ぶモデルマイスターとして名を連ねるようになります。
戦争とマイセン窯
彼らの内輪の対立もそこそこに、欧州では1740年のマリア・テレジアのオーストリア王位継承戦争、1756年の七年戦争と立て続けに戦火に見舞われます。
マイセン窯を所有するザクセン王国も戦争状態へ。
プロイセン王フリードリヒはザクセン王国を侵攻した際に、磁器製造の秘密を手に入れるべく、マイセン窯の奪取を試みました。
その際陶工達は、窯を破壊して敵国が使えなくしたり、研削機を分解してドレスデンへ避難後に組み立てるなど、できる限り製磁技術の流出を防ぎました。
大戦後、絵付部門に新しい監督者が就任すると、ヘロルトはその下で働くことを嫌がり、隠居することになります。
ケンドラーは造形の雛形を残し、弟子たちにアシエに後を託す形で表舞台から姿を消しました。
1775年1月にはヘロルトが、同年5月には彼の後を追うようにケンドラーが亡くなり、マイセン窯の大躍進を担った大物たちの物語は幕を閉じることになるのです。
まとめ
・ケンドラーが成形師として招かれる
・アウグスト王の死によってバロック様式からロココ様式へ
・様々な点でケンドラーとヘロルトが対立
・戦争によって欧州が荒れた後、二人は表舞台姿を消す
以上、マイセンの造形技術の発展についてのお話でした!
その後もマイセンは、ブルーオニオンなどの代表的な磁器を作っていきますが、ベトガー、ヘロルト、ケンドラーが後世に続くマイセンの基盤を作り上げたことが分かりますね。
ちなみに、アウグスト強王(アウグスト2世)が亡き後、磁器の宮殿は完成することはありませんでした。
後継者であるアウグスト3世は、父とは正反対で磁器などには興味がなかったためです。
この時、日本製の磁器を飾る日本宮が作られるはずでしたが、幻となってしまったのが残念です。
【次回記事】
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