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【国富論①】分業の効果と貨幣の起源~分業と貨幣~

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この記事ではアダム・スミスの国富論を読み解いていきます。

  

見えざる手、自由放任主義……、どこかで聞いたことがこれらの言葉はここから生まれてきました。

 

経済学のはじまりともいえる彼の著書を通して、世の中の仕組みについて理解を深めていただけたら幸いです。

 

今回のテーマは“分業と貨幣の起源”についてです。

  

  

分業

  

〜引用 第一編 第一章より〜

  

ピンの製造の職業から一例をとってみよう。

  

この仕事に向けて教育を受けたものでもなく,そこで使用されている機械の使い方を知っているのでもない職人なら、精一杯働いてもおそらく一日一本のピンを造ることもできないだろう。

  

ところが、この仕事が今日行われているやり方では、仕事全体が一つの独自の職業であるだけでなく、多数の部門に分割されている。

  

一人は針金を引き伸ばし、二人目はそれを真っ直ぐにし、三人目はそれを切断し、四人目はそれをとがらせ、五人目は頭をつけるためにその先端を削る。

  

さらに頭を作る独自の仕事もあるし、ピンを磨く独自の仕事もまた別にある。

  

ピンを紙に包むことさえ、それだけで一つの職業なのである。

  

もし彼らが皆個々別々に働き、特定の仕事に教育されていなかったとすれば、彼らは間違いなく、一人あたり一日に20本のピンも、おそらくは1本のピンも造ることができなかっただろう。

  

〜引用ここまで〜

  

分業については第一編の第一章、つまり国富論のスタートを飾るテーマです。

  

分業は、とある生産物を一人の職人が作るのではなく、製造過程を部分ごとに分けて作る考え方です。

  

分業はそれぞれの分野に専門的に特化することで、生産スピードが早く品質もより良い生産物を作ることができます。

  

国富論では、分業の結果、個人の技倆(ぎりょう)のUP、時間の節約、機械による労働の簡略化ができるとされています。

  

特に個人の技倆のUPについては、各人は自分自身の特定分野で専門家になり、学者の研究の対象にもなるため、技術の進歩にもつながってくることも記されています。

 

現代においてそれが最もよく現れている例は、自動車の生産ではないでしょうか?

  

素材、デザイン、機能…部品の一つ一つが専門性の塊であり、ある車体は速さに特化し、ある車体は乗り心地を追求し、ある車体は社会問題の実験台のようにもなっている……。

  

分業によって生産と技術の発展が行われていることが実感できますね。

  

 

貨幣の起源

  

〜引用 第一編 第四章より〜

  

いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼の欲求のうちきわめてわずかな部分に過ぎない。

  

彼がその欲求の圧倒的大部分を充足するのは、彼自身の労働の生産物の中で、彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物の中で必要な部分と交換することによってである。

  

こうして誰もが交換することによって、生活するのであり、言い換えれば、ある程度商人になるのであり、社会そのものが商業的社会と呼ぶことができる。

 

しかし、分業がおこり始めた当時は、この交換能力はしばしばその作用は甚だしく、妨害され阻止されたに違いない。

  

肉屋が、自分が必要とする以上の肉を持っていて、パン屋は自分が必要とする以上のパンを持っている。

  

商品を自分が必要とする以上に持っているのに、別の人はそれ以下しか持っていない場合、前者はこの余剰の一部を喜んで手放すだろうし、後者は喜んで購入するだろう。

  

しかし、肉屋の肉が余っているにもかかわらず、パン屋が肉に困っていない場合、交換は起こり得ない。

  

彼が彼らの商人であることも、彼らが彼の顧客であることもできず、誰もが相互の役に立たないのである

  

このような状況の不便を回避するために、分業が最初に確立されて以後、慎慮ある人は、自然に次のように問題を処理しようと努めたに違いない。

 

それは、人々が自分たちの勤労の生産物との交換を拒否することはほとんどないだろうと考えられる商品の一定量を、いつも手元に置いておくことである。

  

社会の未開時代には、商業の共通の用具である家畜が。

  

我々の西インド植民地のあるところでは砂糖が。

  

そして今日でもスコットランドのある村では、職人が釘をパン屋や酒場に持っていくことが珍しくないという話である。

  

そして、ついに人々は用途のために不可抗的な理由で、他の全ての商品に勝るものとして、金属を選ぶことに決めたように思われる。

  

〜引用ここまで〜

  

商売のはじまりは余剰した生産物の物々交換でしたが、需要と供給が釣り合わない場合は何の役にも立たないという例えですね。

  

そのために貝殻や砂糖、釘といった比較的持ち運びやすく需要の高いものへと変わっていったことが分かります。

  

そんな中でも金属は、状態が変わりにくく、物理的な耐久性があり、分割と結合もできるため、商業と流通の用具適していると述べています。

 

品物を他の労働と比べるのは難しいですが、金属を貨幣に鋳造することが便利だと知るようになった商業諸国は、価値の尺度を金、銀、銅(卑金属)として考えるようになったと分析しています。

  

銀山が発見された時などは金の価値が三分の一ほどにも暴落したこともありますが、ひとたび金属貨幣を使い始めた国は、この金属による価値判断から逃れられないことも言及されています。

 

これらのことからスミスは、

  

「品物の貨幣価値というとき、私が理解するのは、常に、貨幣の名称とは変わりなしに、品物の販売と引き換えに得られる純金または純銀のことである。」

  

とまとめています。

 

  

まとめ

・分業=生産物の作業手順を分解し、個人が取り組む生産活動

・分業によって生産力と専門性の強化ができ、専門技術は研究対象にもなる

・分業が確立すると、自分の生産物では生活ができず、物々交換が起こる

・物々交換では不便なため、価値の保存が可能な金属貨幣が生まれる

  

スタートしました国富論。

   

アダム・スミスの最初の分析は“分業”でしたね。

   

ピンの生産工程を分けることで、部分的な専門家ができ、生産効率も質もUPするという考え方は、今でも当たり前に行われていますね。

  

現代では車の生産を最初から最後まで一人で行うのは不可能なほど専門性が高く、各分野の研究も進んでいます。

  

経済発展の要である“物を生産する”という行為に対して真っ先に切り込んだ彼の分析能力に驚かされます。

 

では生産したものの価値とは一体何なのか……。

  

それついても彼は言及しています。

  

次回は“使用価値”と“交換価値”を軸にまとめていきます。

 

【次回記事】

 

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