アリストテレス
マケドニア出身のアリストテレスは、バルカン半島東南、スタゲイロスという小さな都市に生まれました。
医者の親を持ち、プラトンという哲学界のスターを師にしていた過去があります。
彼が誕生した頃、この地方はマケドニア王国の支配下にありました。
国家間での争いが絶えず、ペルシャ勢力の介入もあり、ギリシャは衰退の一途をたどっていました。
しかしアレクサンドロス大王の父フィリッポス2世が一帯を支配することにより、ギリシャはマケドニアの制圧下に置かれていきます。
このような騒乱の世の中でどのように生きたのか…。
今回は後に“万学の祖”と呼ばれるようになる男についてまとめていこうと思います。
アリストテレスの過去
実はアリストテレスの若い頃の記録や伝承はほとんど存在せず、謎に包まれた部分が多いです。
幼くして両親と死別し、義理の兄を保護者として少年期を育ったと言われています。
17~18歳の頃になると、プラトンが創設したアカデメイアに入学したことが明らかになっています。
入学後のアリストテレスは20年以上もの間勉学に励み、プラトンも彼には一目置いていたとされています。
プラトンが晩年を迎えると、アカデメイア学頭の後継者としてプラトンの甥が選ばれました。
このタイミングでアリストテレスはアカデメイアを去りましたが、アカデメイアを去った理由は明らかになっていません。
大王の家庭教師
多くの学問を修めアカデメイアを去ったアリストテレスは、小アジアのアッソスで学問を教えながら暮らしていました。
その噂はマケドニア王フィリッポス2世の耳にも届きます。
将来、王となる息子の教育を頼む。
フィリッポス2世に招かれ首都のペラに向かったアリストテレスを待ち受けていたのは、マケドニア王の息子アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の教育係という大任でした。
フィリッポス2世は首都から40㎞ほど離れた場所に学校を作り、後にエジプトのファラオとなるプトレマイオスや獅子殺しとして恐れられるようになるリュシマコスをはじめ貴族や高官の子らと共に学ばせます。
幼き頃から勉学を共に過ごさせ、将来アレクサンドロス3世の側近として仕えるための人材も育てていたのですね。
学校では弁論術、文学、科学、医学、哲学などを教えていたとされています。
アリストテレスが教育係を務め始めてからおよそ6年が経つと、アレクサンドロスは王位の座に就きます。
大役を終えたアリストテレスはその翌年(紀元前335年)、アテナイに戻りました。
49歳前後までの出来事でした。
リュケイオン設立
アテナイに戻ったアリストテレスは、アレクサンドロス3世の資金援助を得て、東の郊外に自身の学園“リュケイオン”を設立。
科学や哲学をはじめとする多くの学問を学ぶ場を人々に提供しました。
彼は、学園内の散歩道(ペリパトス)を歩きながら講義をすることを好みました。
このことから、アリストテレス学派の人々をペリパトス派とも呼ばれるようになりました。
その後の各地の情勢不安から、追われるようにアテナイを去り、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスで62年の生涯に幕を閉じました。
以上がアリストテレスの生涯の簡単なまとめです。
半生は未だに謎が多いですが、学術以外にも当時の歴史上の人物に多大な影響を与えた大先生というイメージは残りますね。
次回は彼の哲学的な考えに迫っていきます。
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