哲学

【韓非子㉒】楚に生まれ楚に復讐した男~伍子胥~

哲学

【前回記事】

 

この記事では、中華戦国時代末期(紀元前403~紀元前222年頃)の法家である“韓非”の著書韓非子についてまとめていきます。

      

韓非自身も彼の書も、法家思想を大成させたとして評価され、現代においても上に立つ者の教訓として学ぶことが多くあります。

       

そんな韓非子から本文を抜粋し、ためになるであろう考え方を解釈とともに記していきます。

     

【本文】と【解釈】に分けていますが、基本的に解釈を読めば内容を把握できるようにしています。

     

今回のテーマは“子胥(ししょ)出(い)で走る”です。

    

       

       

子胥出で走る

【本文】

子胥出で走る、辺侯(へんこう)之(これ)を得たり、子胥曰わく、上の我を求むるは、我に美珠( びしゅ)有るを以てなり、今、我已(すで)に之を亡(うしな)えり、我且(まさ)に子取りて之を呑めりと曰わんとす、と。

  

侯因(よ)って之を釈(ゆる)す。

 

【解釈】

伍子胥(ごししょ:春秋時代の呉の政治家・軍人)が、楚から逃げてきた際、国境のの警官が彼を捕らえた。

  

その際、子胥はこう言った。

  

「朝廷が私を探しているのは、私が美珠(宝)を持っているからだ。

  

今私はその玉を無くしてしまった。

  

だから私は(追っ手たちに)、あなたが私から玉を取り上げて呑み込んだと言うつもりだ」

  

その言葉を聞いた警官は、恐れて彼を放した。

  

  

楚に生まれ楚に復習した男

伍子胥像(蘇州盤門伍子胥祠)

  

伍子胥(生不祥〜紀元前484年)は元々は楚(平王時代)の人物です。

  

平王に父と兄の命を奪われ、宋や呉に亡命しました。

  

今回はそんな伍子胥が、楚から亡命している途中の逸話を韓非が記した節ですね。

  

伍子胥の父である伍奢(ごしゃ)は、平王の子である建の師(太傅)でした。

 

太傅の下の役職に費無忌(ひむき)という人物がおり、費無忌は伍奢や彼を慕う建を疎ましく思っていました。

 

あるとき、秦国と王女と建との間に縁談が上がり、その使者として費無忌が赴きました。

 

王女が絶世の美女だったため、費無忌は太子(建)ではなく、平王の妃にしたらどうかと王に持ちかけました。

 

平王はその話に乗り、費無忌は気に入られ王の側近になりました。

 

強い権力を手に入れた費無忌は、王女の一件で建が反乱を企てていると噂を流しました。

 

伍奢は費無忌に対して嘘を訂正するよう諌めましたが、費無忌は聞く耳を持とうとはしませんでした。

 

それどころか、平王を煽り立てて伍奢を投獄してしまいました。

 

費無忌の傍若無人は止まるところ知らず、太子を亡き者にしようと使者を差し向けました。

 

しかし、太子に同情した使者がことの経緯を伝えたため、太子は宋に亡命することになります。

 

太子の暗殺に失敗した費無忌は、伍奢の息子を伍尚と伍員(伍子胥のこと)を呼び寄せるよう彼らに通達しました。

 

兄の伍尚はこの時自らの死を悟り伍子胥にこう言いました。

 

「私には父を見殺しにすることはできない。お前は逃げてこの恨みを晴らせ」

 

その後伍尚は父とともに処刑され、伍子胥は兄の言葉通り楚から亡命しました。

 

伍子胥は太子が亡命した宋に向かいますが、宋での内乱をきっかけに太子建は命を落としてしまいます。

 

その後、伍子胥は呉に亡命することになります。

 

おそらく上で紹介した節は、このタイミングの話だろうと推測されます。

 

命からがら呉に着いた伍子胥は呉国の公子である光の歓迎を受け、呉王(僚)に力を貸すことにします。

 

紀元前518年、呉と楚の間で戦いが起き、呉が勝利しました。

 

伍子胥はこの勢いのまま楚を攻略すべしと僚王に進言しますが、王は聞き入れてくれません。

 

そこで伍子胥は王の座を狙う光に肩入れし、刺客を使って僚王を亡き者にします。

 

僚王亡き後、呉王となった光は闔閭(こうりょ)となり、功労者である伍子胥を軍師に据え楚を攻め、これを陥落。

 

伍子胥は墓場から平王の遺体を掘り出し、300回の鞭打ちをもって父と兄の仇を果たしたのです。

 

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